例えば昨今取り沙汰される10兆円以上の金融緩和策に関しても、日銀から市中金融機関に大型の資金供給が行われたとして、果たして必要とする特に中小企業を中心とした分野に充分な資金がいきわたる事となるのか、若干の疑問が生じ得ない。大企業は、殆どの場合、例えば、現今の需要関係に鑑みて、設備投資を中心とした新規投資に対して、そう旺盛な意欲が存在するとは考えられず、従って、必要資金に逼迫しているとは言えない事から、金融緩和による資金供給は、専ら現在特に運転資金に逼迫している一部大企業と、多くは中小企業向けとなるのではないかと想定される。一方で、金融機関としても、先行きの不透明なこれら諸企業に対する貸出しを積極的に展開する事が出来るか、BIS規制等が強化され、経営の健全性が強く求められている現況で、大きなリスクを負担してまで貸出行動を活発化させる覚悟があるかどうか、甚だ疑問に感じるのは一人小生だけだろうか?
カンフル剤的に大型公共事業の発注等を中心とした経済対策が強く求められる事は事実であり、これにより一時的な景気浮揚と雇用の拡大を図る事は、多くの経済「評論家」が主張しているところでもある。但し、余り長期に渡ると、またまた財政面での脆弱さをこれまで以上に露呈させる可能性もあり、30数年振りと言われる貿易赤字一兆円超えの数字に見られるように、為替相場への負の影響も生じるかもしれない。既に昨今の円安は、貿易中心の企業収益を押し上げている半面で、原油やLPG価格等、エネルギー関連コストを急騰させ、電力価格にまでインパクトを与えかねないところに来始めている事は読者諸兄姉の良く知るところである。安全性を無視した原子力発電依存は全く論外だが、半ば魔女狩り的な国民的原発アレルギーの高騰で、CO2問題を無視しているかのような火力発電依存によって、先の貿易赤字の現況の一つとなっている事に漸く気付き始めているのも、悲しい現実である。京都議定書問題は何処に行ったのだろか?
上記の財政面の脆弱さの増大から来るこれ以上の円安が段階的にでも進行し、仮に、対ドル・レートで90円台、100円台に至る事があるとすれば、更に輸入原材料価格等の高騰を惹起し、国内産業、特に海外展開の不可能な中小企業に今以上のインパクト与える事にもなりかねない。我が国の産業の基本は、乏しい原材料を輸入し、これに世界でも屈指と言われる我が国の暗黙知をそれよりもっと心配なのは食料価格の高騰である。一般に言われているとおり、特にバイオ燃料転嫁問題から来るトウモロコシ価格の高騰は目を蔽わんばかりであり、詳しい数値は知らないが、数年前の数倍の価格に高騰しているのではないか。トウモロコシと言っても、家畜などの飼料に使用されている関係から、牛肉・豚肉・鶏肉等の価格の高騰も目前であり、食糧の大半を輸入に依存している我が国国民にとっては、将来の死活問題にも発展しかねないと懸念するが、小生としてはどうか間違いであって欲しいと願うのみしかない。
次期政権政党が主張しているように、景気浮揚無くして雇用の拡大は無く、企業業績の向上と雇用の拡大無くして財政再建は為しえない事は当然であり、雇用の確保=収入の安定無くして需要の拡大=デフレ脱却も在り得ないと考えられる。しかし、経済のグローバル化の進展はこれまでの比ではない為、釈迦に説法ではあるが、為替相場の動向、原油等輸入エネルギー価格の動向、資本市場の動向を充分に注視して我が国の先行きに対する舵取りを御願いしたいものである。
被災地の復興も、先ずは、2700万トン以上と言われる瓦礫の処理も優先して欲しい。先にも主張したが、近場に焼却場を早急に複数施設建設する事も一考である。建設に関して雇用が確保され、稼動する為に雇用が必要となる。焼却炉の建設に何ほどの費用が必要だろうか。これまで無駄にしてきたコスト、例えば、わざわざトラックに積載して北九州まで輸送する費用が如何程だったか、それにより処理される瓦礫の量が如何程だったか、考えてみるだけで馬鹿馬鹿しくなる。焼却処理された瓦礫は、テトラポットの材料にでも転嫁し、各海岸の防波堤対策に代用する事も可能だったはず。万が一、処理された瓦礫の放射能問題を云々する可能性があるならば、各地方への搬入も同次元で論じなくてはならない事となり、何をか況やとも思えるが。素人考えと謗られるかも知れないが、日本人の英知を集約すれば、震災から一年半以上、既に各海岸の防波堤対策は少なくとも終了していたかもしれないと思うと、失われたこの時間が小生としては全く口惜しい限りでもある。
希望のある我が国の将来を目指して、来週発足する新政権には是非頑張ってもらいたいものである。還暦を過ぎた爺さんからすれば、新政権を構成する議員の今回の若返りは最も歓迎すべき事である。米国のオバマ大統領も四十歳台前半で就任した事を踏まえれば、我が国でも40歳台前半の宰相が誕生したとしても不思議でも、心配な訳でもなく、寧ろ大いに期待すべき動きであると思う。動きの早い世界情勢、若い感覚こそがこれに対処し、自信をもって未来に向って乗り越える力を有していると信じている。「若者達(小生と比較しての話かな?)よ、勇気をもって前に出よ!怖れるべきは、自らの心の内底に潜む恐怖心だ!恐怖心をかなぐり捨てて、未来に向って前進せよ!未来は君たちの為にある!」先にも書いたが、ルーズベルト大統領が1920年代後半の世界恐慌時に国民に訴えた言葉だけど、今こそ、全ての若者に送りたい。
そうこうしている間に、小生の出身の宮崎県高鍋町の役場に勤める後輩からメールが届いた。故郷の「希望の街づくり」の為に若手職員五人で自主研究グループを立ち上げたと言う。『これからの少子高齢化社会における故郷の街づくりについて強い危機感を有し、グループの活動を通じて、これからの街づくりの将来ビジョンを明らかにすると共に、日々の活動の中で故郷の未来に希望の灯をともしたい』との事。全くその通りだと小生も考える。先ずは五人から、そして故郷の若手を集合させよ!アバンギャルド(前衛)は苦労が多いが、為し得た時の喜びは他に与えたく無い程のものでもある。リスクを恐れずに前進せよ!少なくともここに一人、後援する爺さんが既に存在するぞ!(言葉だけで無く、今年中に差し入れを東京から送るぞ!)こうした動きを、全国に発信する源となれ!頑張れ!
]]>さて、遅くなってしまいましたが、今回のブログでは、前回にお約束した小生のケンブリッジ大主催国際会議での今年のスピーチ=拙稿のうちの一つに関し、その概要を掲載します。従って、今回のブログは読むのに厭きが来る程長い事を覚悟して望むべし!
前回、掲載に大騒ぎした同大の栄誉証受賞の「証拠写真」は、小生のPCに関する信じられないほどの技術的未熟さ=無知さにより、掲載を断念しています(旬刊誌「財界」11月13日号59頁には掲載されました。証拠写真を公開していますので、あの話は「嘘」ではありませんから、悪しからず!)。今回掲載するこの拙稿が、特に企業経営者や投資家の方々に少しでもお役に立てればと願っています。
Old Threats and persistent risks – when will we learn?
当セッションの主テーマである「Old Threats and persistent risks – when will we learn?」に関して、これを正面から論じる事は非常に困難であり、また、その議論も多岐に渡って甲論乙駁する結果となる可能性が高いと考えられる。そこで、自分としては、この限られた発表時間を有効に活用する為に、企業価値を判断する際のメルクマール、特に、企業の財務情報以外の重要要素に関する情報について分析し、関係各機関が世界の企業に対してこれらに関する更なる情報開示を要請する必要性について論述してみたいと思う。
2008年のリーマン・ブラザーズの経営破綻に端を発した世界同時不況や現在も続く欧州債務危機問題、度重なる世界的な経済危機により各国企業の競争力は著しく減退し、当然に我が日本経済にも甚大なる影響を及ぼしてきた。更に2011年3月の東日本大震災の発生とタイの大型洪水問題の発生による世界的サプライチェーンの崩壊など、各国企業の経営や社会経済に与えた影響に関しては言及する必要も無いだろう。特に日本企業は震災による様々なダメージに対処し、不断の努力による業務の復旧と新たな成長に向けての取り組みを進めつつある。更なる成長に向けて、企業はこれまで以上にマーケティングやR&D、グローバル事業展開、人材育成等、多面的な活動を展開してきているのも事実である。
企業活動を推進していくに当たっての重要な活動の一つに、様々なステークホルダー、特に株主・投資家に対する自社の現状に関する情報提供が最重要課題ともなっている事は言うまでも無いだろう。株主・投資家からの自社に対する関心・注目を集める為には、自らの組織の成長に向けた商品やサービスのイノベーション改革に尽力する事は勿論、投資家の投資判断に資する適時・適切な情報開示とコミュニケーションを更に強化する事が重要である事は言を待たない。その意味で“IR”は、企業と投資家を結ぶコミュニケーションそのものであり、企業が自らの投資価値=企業価値を伝える重要なプラットフォームでもある。しかしながら、これまでの多くの企業IRでは、過去・現在の財務情報を中心とした情報発信、つまり“財務体質の実態”の開示にのみ注力して来た実態があるが、いまや、こうした情報だけでは企業の価値を評価するメルクマール足り得ないという投資家の変化が顕著であり、特に、リーマンショック以降は企業のサステナビリティを如何に評価するかが判断のポイントともなってきている事実に世界の企業が漸く気付き始めているのも事実である。
企業を取り巻く環境は大きく変化してきている。世界的な経済危機の発生やグローバル化の進展での社会的課題の顕在化、更には顧客の価値観=ニーズの変化と言った企業経営に直接的影響を及ぼす課題に直面している状況において、企業価値の評価に当たっては、単に財務体質の実態に関するものだけでなく、更に広範な状況が必要になってきている。事実、これまで有価証券報告書をはじめとしてCSRレポートや環境報告書、更には年次報告書など多岐に渡る情報開示書類が作成、公表されているが、その情報量の膨大さ・詳細さに加え各報告書間・情報間の関係性が不明確な現状においては、投資家側でもこうした情報の理解が充分行ず、また、企業の将来性を判断する為の材料として使いこなせていない状況にあるといっても過言ではない。従って、企業が達成すべき眼前の大きな課題は、既存株主等に対する説明責任を強化すると言う目的だけでなく、現在・未来の株主に投資判断を適切に行える多角的な情報を可能な限り分かり易く伝達する事で自社の“社会的存在価値”に対する理解を促進する事であると言えよう。つまり、各企業に対して、こうした厳しい環境であるが故に、開示情報の充分性や分かり易さという観点を踏まえ、全てのステークホルダーに対する情報開示やコミュニケーションの方法に関して改めて見直す必要性が高まっている事を認識させ、改革を促さなければこうした問題は到底解決し得ないところに来ていると考えられる。
ここで、企業価値とは何かに関して改めて考察してみたいと思う。投資意欲を喚起する為には、如何なる情報を提供すれば企業の“価値”を投資家や社会に理解してもらえるのだろうか。これまでは、一般に、投資家は、企業が投資に値し得る組織なのかを判断する為に、当該企業の組織理念や経営戦略、更には過去・現在・未来の収益実績や見込み、収益性・安定性・成長性と言った財務体質等の様々な観点から企業の“将来性”について評価しようとしてきた。その為に、企業は、これまで“財務体質”や“有形資産”を中心とした情報を提供してきた。承知の様に、近年は、こうした財務資本や有形資産と同等或はそれ以上に“知的資産”や“ガバナンス体制”、“レピュテーション”と言った“無形資産”が企業価値評価の構成要素として強く意識されるようになった。当然に、企業価値の評価に当たっては、過去や現在の指標である財務数値が如何に素晴しい結果を示していたとしても、余り意味は無く、未来の収益見込みを達成するだけの価値を有しているかどうかの判断基準としては、“経営基盤”・“企業理念=風土”・“技術”・“人的資源”等の無形資産に関する情報が重要な要素である。市場価値の残余部分は無形の“資産”であり、先に述べた人的資産や知的資産、環境資産、社会資産等がこれに当たる。企業価値とは、要は、金銭的な指標によってのみで表されるものではなく、企業の成長に向けた多面的な視点によって表現され、評価されるべきものであると言えよう。
こうした変化の背景には、世界レベルでの社会・環境の変化と課題の顕在化、つまり、世界人口の増加やグローバルな資源・環境問題の顕在化、企業経営の不確実性の増大、更には、企業不祥事の続発等の発生が存在している。財務体質が如何に磐石であっても、コンプライアンスやガバナンス、環境問題への配慮等、社会的公器としての適切性が欠如していれば、持続的な成長の実現が不可能である事を、これまでの歴史がしっかりと証明してきた所以でもある。また、こうした考え方は、国際的な制度設計としても検討が進められており、既に2006年には国連が“責任投資原則(PRI: Principles for Responsible Investment)”を公表して以来、例えば、ESG(環境・社会・ガバナンス)情報をはじめとする非財務情報の評価が一般的な投資判断基準として認識されるようになってきた。PRIが投資プロセスにESG要素を組み入れる事を宣言している事から、ESGに関する情報開示の要請は高まりを見せており、小生が独立社外役員を務めた三菱商事では既に数年前から次のように宣言し、自らのESGに関する取り組みをあらゆる機会で説明してきている。つまり、“継続的企業価値の向上の為には、経済的価値と環境価値、更に社会的価値を向上させる事が重要であり、その為にこそガバナンスが存在する”と。蓋し、真実の考えである。
また、一方では、これまでの財務情報を中心とした開示のみではなく、財務情報と非財務情報とを合わせた新しい情報開示のあり方についても議論が進んでおり、小生も日本サイドのメンバーであるが、国際統合報告評議会(IIRC: International Integrated Reporting Council)において統合的な情報報告に関するフレームワークの構築が進められているのも事実である。
企業は、自らの経営活動を磐石なものにする事は勿論、投資家の企業評価に資する情報提供を目的として、必要な非財務情報の開示を積極的に進めることが強く求められる。この両種の情報の発信は、自らの組織のビジョンと戦略をより一層明確にし、更には、自らに対する社会的理解と評価を大きく向上させる事に資するものである事を認識すべき時が来ている。今こそ、過去の経験から何が真実であるかを真摯に学ぶ事、それが世界経済の復活にも繋がると心から信じている。
以上が、今年のケンブリッジ大主催国際会議の小生のスピーチのうちの一つに関する概要です。誰だ?読むのに疲れたとか何とか言ってる読者諸兄姉は!冒頭に記述した総選挙に関する各政党、候補者の考え方に関する情報開示も、同じ事で、充分に理解した上で判断を下さないと、またまた『騙された−!』とか何とか、自分自身で嘆く事になりかねないよ。そうならないように、「過去の経験から何が真実であるかを紳士に学ぶ気持ちを持つこと」が本当に大事だと心底思います。読者諸兄姉は如何お考えか?
]]>今回、ブログ更新を思い立ったのは、ある事に関して、読者諸兄姉にご報告申し上げ、これまでの尋常ならざるご指導、ご支援等に関して心からの感謝を申し上げなくてはならないからです。
読者諸兄姉は良くご存知のように、今年も英国ケンブリッジ大学(ジーザス・カレッジ)主催の国際会議である「The Cambridge International Symposium on Economic Crime(経済犯罪に関するケンブリッジ国際シンポジウム)」にスピーカーとして招聘され、九月初旬からの約一週間、我が愚妻共々参加してまいりました。同国際シンポジウムは、「経済犯罪」と言っても、マネロン防止策やマフィア・テロ対策のみでなく、近年は、企業不祥事の防止策に関し、コーポレート・ガバナンスや、内部統制、リスク管理経営等のあるべき姿、更には企業情報、特に非財務情報の開示問題について、世界100数カ国、延べ1、500人以上の政・官・学・財界の代表が集い、熱心に討議する場としても有名であり、特に今年で30回目を迎える記念すべき年でもありました。
こうした中で、小生に与えられたスピーチ・テーマは二つ。一つは、「Old threats and persistent risk - when will we learn?(旧弊の脅威と存続するリスク−何時になったら我々は自覚するのか?」であり、もう一つは、「Too Big to Fail - How to Control Corporate Behemoths?(消滅するには巨大すぎる−巨獣企業を如何に制御するか?」でありました。両議題共に我が国にとっても時期に合ったもの(企業不祥事の頻発、JAL・東電問題の処理)でもあり、その面でも各国の参加者の注目を集めたテーマの一つと言っても過言ではないと思います(小生の拙い当該テーマに関するスピーチの概要については、当ブログの次回=必ず近日中に実施する事を誓います=にアップする予定です)。
ところで、小生と愚妻にとって驚愕の出来事は起きたのは、シンポジウム最中の夜半に行われるディナーの席上での事です。確かあれは三日目のディナーの終了間際の事だったと記憶していますが、突然にMC(マスター・オブ・セレモニー)のケント氏から、「Professor Nagatomo、Please be standing !」と声を掛けられました。何事が起きたのかと恐る恐る(悪い事をしているわけでもないのに、と!)立ち上がると、シンポジウム議長のバリー・ライダー、ケンブリッジ大学教授が、額に入った「証書」を持って何やら読み始めました。周りからは大きな拍手、小生は、同教授の読み上げる声がよく聞こえず、ポカーンとしたままで同「証書」を受け取りました。「英資、オメデトウ!」との同教授の声にはっ!と我に返り、証書を見ると、そこには「Certificate of Ohnour(名誉証?)」と記載されているではありませんか。日本人では初めての事と説明された記憶があります。IPS 細胞騒ぎの誰かではあるまいが、決して小生の思い込みで無い(笑い?)事の証明に、同大事務局よりPCで送付された記念写真を以下に添付します。(向って右側がライダー教授。ディナー会場大ホールのアッパーでの撮影で、周囲には各国大使等が座って拍手しています。)
受賞は9月初旬で、ブログのアップが遅れたのは、自写の証拠写真が無かったからが故であり、何処かの大法螺吹きと間違われないように、証拠写真を添付したかったが為であります。
後から考えると笑い話ですが、全くの突然の出来事で、事前に何も知らされる事無くの「驚愕事(?)」でしたので、写真に写っている小生の顔が若干引きつっているのが分かると思います。更に、我が愚妻は、同時刻、何も知らずに(予め知らされていないので当然ですが)お手洗いに行き、ディナー会場の入り口で、小生がライダー教授と一緒に「早く席に帰って!早く!早く!」と急かされて、何も判らずに急ぎ席に戻ると、数百人のディナー出席者の前で大きな花束をプレゼントされ、何がなんだか判らないまま、多くの方々の祝福を受けて、これまた、大感激!と言った有様で、面目次第も無い授賞式となりましたが。
ところで、ご報告したように、小生如きがこの様な「名誉証」をケンブリッジ大学から授与されるとは、感激以上の何ものでもありませんが、小生一人がこの栄誉に浴したのでは決して無く、これまで、小生に対するご指導、ご鞭撻、ご理解、ご協力を賜った多くの全ての先輩、同僚そして読者諸兄姉の存在があればこそと、この場を借りて、心から深く感謝申し上げます。決して小生一人が為しうる事ではなく、全ての方々のお陰と、心底思いを新たに致しております。
今後とも、小生一人の力は微力で、小さい、小さいものですが、今回の件に満足、慢心する事無く、国際的に段々と存在感が薄くなってきた我が日本をアピールし、その存在を高揚させる為に少しでもお役に立てるよう、誠心誠意努力を続けていく積りですので、これまでにも増して読者諸兄姉のご指導、ご鞭撻を賜りたく、伏してお願い致します。常日頃諸兄姉にも主張している事ですが、こんな時ほど、小生、皆様に改めて心から申し上げる事が出来るのではないかと心から思います。蓋し、「貴方に遭えて良かった!貴方と一緒の時を過ごせて良かった!貴方と理解し合えて良かった!」=「これからもどうか宜しく」と!
これまでの長きに渡る「サボリ」をお許し下さい。 英資 拝
PS:と言う事で、証拠写真を添付した形で原稿を作成し、ブログの更新をやってみたのですが、何故か写真だけは添付されません。誰か、やり方知っている人がいたら、ご教授願いたい!今回のブログの空白欄は貼り付けようとした「写真」の部分です。読者諸兄姉にイライラさせる原因を作ってしまい、本当に御免なさい。
一方で、現在ほど、我が国国民の知る権利、知らされる権利が阻害されている事はかってなかったほどに高まっているにも拘らず、その実態すら実感しないで、例えば(極端に言えば)韓流ドラマや韓流俳優にキャアキャアしている国民性は世界に存在し無いのではないかと思うほどの状況であり、考えるに実に嘆かわしいと言うか、悲しくて涙が止まらないと言うのが実感である。「真実を見抜く目を持て!自らの生存に関わってくる状況だ!」と、先の二回のブログでも警鐘を鳴らした積りだが、やっぱり、「なんか変だよ、我が日本!」と大きく言いたくなってきた。
『幾度と無く、経済的な事由が、国民の健康上の事由に優先された。秘密主義が、情報公開の必要性に優先された。そして政府の役人は、道義上や倫理上の意味合いではなく、財政上の、あるいは官僚的、政治的な意味合いを最重要視して行動していたようだ』、更に、『直面している大きな課題は、市場の道徳観念の欠如と効率性との間で、しかるべき落としどころを探ることだ。自由を謳う経済システムは、しばしばその自由を否定する手段となってしまう。二十世紀の特徴が全体主義体制との闘いであったとすれば、二十一世紀の特徴は行き過ぎた企業権力をそぐ為の闘いになるだろう。極限までに推し進められた自由市場主義は、恐ろしく偏狭で、近視眼的で、破壊的だ。より人間的な思想に、取って代わられる必要がある』と。また、『そもそも消費者とは、我々全員のことだ。この国最大の経済的集団であり、どんな経済決定にもことごとく影響を受ける。消費者は重要視すべき唯一の集団である。しかし、その意見は蔑ろにされがちだ。政府は如何なるときも、消費者の?知らされる権利、?選ぶ権利、?意見を聞いてもらう権利、?安全を求める権利を擁護しなくてはならない。』
以上は、冒頭に紹介した小説の中で、プロローグとエピローグでそれぞれ引用されている文章であり、この小説の注目点は当該引用文に尽きていると思う。巻末の参考文献紹介とネット検索によるところでは、米国のジャーナリストであるエリック・シュローサーの『ファストフードと狂牛病』か、或はシェルドン ・ランプトン&ジョン・スト−バーの『隠されている狂牛病』からの引用文と思われる。冒頭にも述べたが、重要な事は、上述の引用文章に関して、狂牛病に関する記述と考えずに、今般の福島原子力発電所の震災事故後の政府の対応と考えたら如何だろうかと言う事である。特に最終部分に関して言うと、消費者=生活者、経済集団=生活集団、経済決定=活動指示と置き換えてみたら、本当に恐ろしくなってくるとは考えられないだろうか?当時も現在も、恐ろしい事に、我が国の重要視すべき唯一の生活集団である我々国民の知る権利を全て抹殺し、現在においても尚放置され続けている事に、改めて気付いた読者諸兄が殆どだと思うが、国民の殆どは「盲目状況」に置かれているのだろうか。
それも、つい数ヶ月ほど前に米国サイドから開示された昨年3月11日以後の福島原子力発電所事故対応を巡る我が国政府と米国政府等との交渉経緯についての記録文章等で明らかにされた、当時の政権政府の恐ろしいまでの「隠蔽主義」「秘密主義」「欺瞞主義」等の事実である。メディアは何時もの通り、余り問題視しないか、その内に取り上げる事すらなく、昨今では既に過去の事と忘れさせるかが如き対応しか示していない。これほど我が国国民にとって重要な安寧な生活を送る権利が侵害され、放置されて事実が存在していたにも拘らず、恰も国民を愚弄するが如き当時の政権政府の対応に、何故に誰も疑問視し、大きな声で批判する声が我が国であがらないのか、如何に考えても理解出来ない状況にあると言っても過言ではないのではないか。
ここのところ、漸くに国会の事故調査委員会が、当時の政府首脳を参考人招致すると言うところまで漕ぎ着けた様だが、これとても、『当時の対応が適切であったかどうかについて、質疑する』程度のものらしい。当時、米国の報告でも明らかなように、人体に影響を生じ得る数万ベクレルの放射能汚染が確認されていたにも拘らず、『直ちに人体に影響が生じるものではないが』との発言を繰り返し、あまつさえ、即時避難が必要だった福島原子力発電所30?近辺の住民たちへの避難指示が、一ヶ月以上も放置されたと同様の取り扱いを続けた挙句、避難するに関して何らの援助や誘導措置を行わなかった責任に関する追求を行う考えは毛頭ないらしい。現時点で、避難された方々、数十万人が故郷である現地に帰還できず、各地で大変なご苦労をされている事実に関しても、これを問題視する考えすらないかと思える対応には、怒りを通り越して、悲しささえ覚えるのは、一人小生だけなのだろうか。読者諸兄姉は如何にお考えか。改めて、お聞きしたいものである。これ以上の詳細をくどくどと主張すること自体が、『しつこい!』とでも、『煩わしい』事であるとでも言うのだろうか。米国が発表した当時の状況に対する報告書の存在すら、我が国国民は忘れてしまったか、『聞いてない!』『知らない!』『報道したの?』程度なのかもしれない。もしそうであったら、そうした待遇を受けても仕方の無い国民性を有しているのかも知れないが、少なくと、小生は御免被りたいと考えている。冒頭に紹介した「震える牛」が問いかけている事実、正に我が国に存在する恐ろしい事実の存在に早く多くの国民が気付き、自らの「国家」に対する考え方を其々が確立する必要性を心底から感じるべきではなかろうか。
原子力発電所の問題は、『稼動の是非』が問題なのか、『存在そのもの』が問題なのか、考えるべきでは。停止措置をとっても、核燃料棒はそのままであり、それらを冷却させる為に必要な電源装置は、福島での問題発生後一年以上経過した今現在でも、耐震対応などを追加設置する事も無く、何ら変わることなくそのままの状態で放置されている事実の方が余程恐ろしいと言う事実を何故に誰も主張しないのだろうか。明日にでも、巷間言われている大規模地震が発生したら、今度は何が起きるのだろう。やらなければならない事は山ほど存在しているのも関わらずである。「真実を見る目を持とう!」、今ほど重要な時は無い。
そうこうしている内に、今度は北朝鮮のミサイル?宇宙衛星?発射に関する我が国の対応の体たらくである。この問題に関する「真実」は、もっと恐ろしいかもしれない。何しろ「国家防衛」に関する基本的真実が明らかにされたのだから。近日中に考えているところをお伝えしようと思っている。またまた頭に血が上らないように気をつけないと、ブログ更新の間が空いて、読者諸兄姉のお叱りを賜るかもしれないが。
]]>さて、前回にご紹介した日本の「変さ(?)」に対する海外からの指摘の問題に関しては、更に様々なものがあるので、続きとしてご紹介する事に務めたい。当然の事だが、当該指摘を真摯に受け止めて、我々としても表題の通り、「真実を見抜く目を更に養う努力」を続けなければならない、そうでなければ我が国の明日は無いかもしれないと真に思うが、諸兄姉におかれては如何お考えだろうか。
前回に続いて、福島原子力発電所の事故後の我が国の対策に関する大きな疑問である。海外からの指摘は、先ず、「計画的避難区域指定」とその後の対応に関する問題点である。この指摘は、特に避難された方々、今でも大変な苦労をされていらっしゃる数十万人の方々の事を思うと、実に辛いものがある。小生の記憶が正しければ、確か、当該区域指定と実際の避難開始までに一ヵ月半ほどの期間の開きが存在した筈であり、疑問点の指摘はその期間の存在に由来している。この間、我が国は避難対象とされた地域にお住まいだった方々に対して何をしたのかと言う疑問である。
つまり、何れに避難すべきか、言い換えると、避難場所の準備、用意すらせず、また、避難に当たっての輸送の確保に関しても何らの手を差し伸べる事も無く、徒に「避難してください!」と呼びかけるのみであったのではないかと?実際に避難誘導に当たった地方自治体のご苦労は並大抵ではなかったと考えられる。国若しくは東京電力は少しでも避難場所の確保にあの一ヵ月半の時間を有効に活用したのだろうか?小生の知る限り「無」であったと思われる。風評被害もあり、輸送力の確保も儘ならないまま、其々のご家庭が自力で、謂わば着の身着のままでの避難行動を余儀なくさせられた筈だ。海外からの指摘は、曰く、『こんな国は世界広しといえど聞いた事が無い。即座の避難指示であれば理解できるが、充分な猶予期間が存在したのだから、避難場所の用意とか避難・生活物資の輸送方法の確保等、被害者の為に準備し得る事は数多くあった筈なのに、何ゆえ動かなかったのか理解に苦しむ。その結果が、バラバラの避難行動に繋がった。これでは「大戦直後の棄民政策」と変わらないではないか。対象となった方々のご苦労は計り知れないと思う。』と。『被災者が多すぎて対応できなかったと言う言い訳は笑止千万である。マスメディアが問題視し、我が国国民の目を振り向けようとした隣国中国の強権的な移住命令であっても、当該政府は、例外はあれ、通常は次の生活先を手当てして命令を下すもの。正しく国民生活の安寧さを無視した対応であったと考えられるが、当事者はもとより、他の国民は何故怒りを表さないのか?巻き込まれたものが不運とでも考えているのか?』と、実に辛辣な指摘に、小生も返答出来なかったのが事実。既に長期間もの間、各所に避難されていらっしゃる数十万人の方々のご苦労と悔しさを考えると、実に悲しい。かてて加えて、そうした方々への生活支援の為の賠償金の支払い、更には義援金の迅速な配布も未だ充分とは言えない状況である。事故発生から既に10ヶ月が経過しようとしている今日ですら。
福島原発に関する指摘でも、上記のものは、謂わば我が国の「不作為」に対する非難の声であるが、一方で放射能汚染の程度に関する公的発表は、これ程疑惑に満ちた「作為」による対応は無いと海外の声は厳しい。我々は既に忘れてしまったのだろうか、事故直後の公的発表は、余り覚えていないが、「直ちに影響が生じる数値ではない」とか言うものであった。問題とすべきは、その後、今日まで次々と明らかにされてきた数字が驚くべきものであり、その当時から判明していたにも拘らず、国民には「大丈夫!」と呼びかけていた我が国の「行為」に対してである。この件に関する海外からの指摘は上記の避難関係に関しても辛辣で、『結果的に何ら救助の対策を講じなかったならば、即座の避難指示でも良かったのではないか、パニックの発生が懸念されたと言う言い訳は通用しない。現時点で公表されている事実を前提にして考えても、汚染値は当時充分に高濃度であったわけであるから、人命尊重が先で、パニックは国が心配する程ではなく、日本国民は既にあらゆる局面で冷静さを世界に示しているではないか。国の公表数値をその当時世界中の誰もが信じなかったは周知の事実であるにも拘らず、その事を伝える努力をせず、謂わば「大本営発表」的に報道してきた日本のマスメディアの責任は大きいと考えるのだが、それでも日本国民は今日でも鵜呑みにしている傾向が見られるが、何故か?また、こうした欺瞞的「作為」に対して糾弾する声が全く起きないのは何故か?』と言うもの。
放射能汚染数値の欺瞞的公表に関しては、今更詳細に伝えるまでも無く、読者諸兄姉は充分にご存知の事であろう。しかし、日本人は我慢強いと言うか、寛容の精神の持ち主と言うか、当時の責任者を糾弾するものはメディアは勿論、国民には誰もいない(と思われる?)。しかし、海外の友人は、何処から知ったのか、次の二点(「事実」とは言わない。小生は知らなかったから。)を挙げて、海外政府は我が国のこれに関する公式発表を何も信じなかったと言う。
? TVの報道番組か何かで、著名な東北福祉大学の某教授が、怒りに満ちた涙目で、同教授の友人か教え子の経済産業省の技官(審議官クラス)が、事故発生直後の3月13−15日の原子力保安院の記者会見で、「メルトダウンの危険性あり!」と発言した事でその日のうちに首相官邸筋から同職を解任されたという。その後、この教授は二度とTVにゲスト出演する(呼ばれる)事はなかったとか。
? 同じTV番組で、現職の女性議員が自ら出演し、3月15日頃に首相官邸を訪れ、IAEA等の協力を早期に仰ぐべしとの文書を提出したが、『パニックが起きると困るんですよね』と一蹴されたとか証言した。同議員もその後この問題では二度と番組出演を依頼されていない。
これが本当だとしたら、真に由々しき状況であり、マニフェスト違反とか何とか取りざたするよりも罪が数十倍も重いと感じるのだが、読者諸兄姉は如何お考えだろうか?今更、考えたって仕方ないと済ませ得る問題なのだろうか?それにしても、当時海外ではメディアが、我が国国民が知らされていなかった「話」を積極的に報道していたと言う事実は窺い知れる。『だから、あの当時、早くにこちらに非難して来い。部屋は明けてあるぞ!そういった筈だろう。』とは友人の言。恐れ入りましたと言う以外に他無い。
小生も小さな孫をもつ身。「直ちに影響は生じない」とは、老齢のこの身、影響が出る頃にはこの世に居ないが、孫達の健康は心配だ。
東日本大震災の発生と、その後の明白に「人災」と言える原子力発電所事故と放射能被害の発生以降、これらの被害に対するこの国における数え切れないほどの対応の不味さや人間味を全く感じさせない被災者対応など、小生としては、これまで、血涙を流すほどの悔しさを感じながら、見ているしかない自分の無力さに打ちひしがれ、真実、何も書く気が起きなかった事だけは確かである。しかし、今でもそうだが、この国のマスメディアは、真実を伝える努力を本当にしているのだろうか?そして、全ての国民は、真実を見抜く目を持って、この国の先行きを見つめる努力をしているのだろうか?何と無く、仕方なく、徒に伝えられる事を鵜呑みにして、将来を考える力を失っているのではないだろうか?
小生自身、大きな事は決して言えないが、老齢化も進んだ性か、多少は小煩い事を言ってもお叱りを受けることは無いと信じて、再度弊ブログを書く事にした訳である。大変恐縮だが、ご興味おありの読者諸兄姉におかれては、何卒、これまで同様の寛容と忍耐の精神を持って弊ブログとお付き合いの程、どうか宜しくお願い申し上げたい
ところで、先にも述べたが、今回の東日本大震災に関する諸対応に関して、「不思議」とも言える我が国国民の感性は、諸外国には本当に「不可思議」に近い物と思えるようだ。「真実を知ろうとする意欲が無いのかもしれない?」とまで欧米の友人諸氏から言われると、正面から反論できない自分自身のもどかしさを心底感じる。以下に、彼らから寄せられた「質問(?)」、「疑問(?)」に関して、そのうちの一部をご紹介するので、読者諸兄姉も、時間があれば、ご興味があれば、一緒に考えてみては如何だろうか。如何に真実を見向く目を持って我が国で生じる事象を理解していないのか、理解しようとしていないのか、その何れかかは分からないが、少なくとも小生は愕然とした事だけは真実である。下記の何れの事象も、多分既に一部報道されているものばかりだが、問題点の指摘がマスメディアから出されているものではないと思う。
大震災発生直後とその後の対応に関して、先ずは、
? 被災者の避難先が把握出来ない状況が若干時間存在した。これに対し、道路が寸断されて現場に近づけないからと言う理由が説明されたが、先進国たる我が国には空からの現状把握が出来ない程の機器類しか存在しなかったのか?「自衛隊は違憲」だから、ヘリコプターを飛ばすなと言った人物は存在しなかったのか?
? 避難先に対する支援物資の輸送に、ヘリコプターやホバー・クラフトなど、民間所有の機器類を総動員しても充分に迅速な対応が図れたのに、不十分であった。民間側は即座に協力を申し出ていたのに、活用されるまでに不用な時間を消費したのは何故か?日本郵船は、神戸港に停泊中のヘリコプター搭載可能なコンテナ船の供出を申し出たが、一週間以上指示が出されなかったと聞き及ぶが。
? 上述の理由から被災状況の迅速な把握が不十分であった為に、自衛隊などの救援組織の構築に時間を要し、結果的に投入戦力も二段・三段の後手後手対応だったのは何故か?米軍の救援体制の構築と投入のほうが遥かに迅速だった筈だが。
? 被災地の瓦礫の除去に如何なる時間を費やしているのか、不思議でならない。大型ブルドーザーや必要機材は民間からの協力でも充分に体制作りは可能であったはずなのに。百歩譲って、焼却炉等、処理施設の不十分さがその理由というなら、現地近くの山間地にでも当該施設を仮にでも迅速に設置することは考えられなかったのか?現在は、その一部を東京都の処理施設に運び込んでいると言うが、処理量が如何程のものか考えられているのか?
? 義援金の配布が未だに完全実施されないのは何故か?被災者の全容把握に時間が掛かってとの理由だが、平等主義もここまで来れば「陳腐」となる。先ずは、目の前にいる真に支援を必要としている方々に対して配布する事が重要でなかったのか?諸外国からも多くの義援金を賜った。如何に説明する積りだろうか。
まだまだ、多くの疑問・質問が提示されているが、重要な事は、その時わが国としては如何なる対応をしたのか、未だに、誰も検証しようとしていない事だ。諸外国の友人達の言を借りるならば、「危機管理対応」が政府として全くなっていないという事なのだろう。企業に強く求めている当該対応も、国としての『内部統制システム』の検証が必要なのかもしれない。現在、一部マスメディアで伝えられている大規模地震発生の可能性に関して、万一これが再度発生しても、先の震災と同様の事を繰り返そうと言うのだろうか?実に懲りない国でもある。神戸の震災は遠い昔の事と忘れてしまった結果が今回の事態発生に繋がっている。「スーパー堤防はスーパー無駄遣い」と言い切り、メディアが囃し立てた議員が居たやに記憶しているが、今後は如何なる発言をされるのだろうか?
そして、原子力発電所の事故発生後の対応に関してである。これは、質問されて、小生自身、考えなかった事実に愕然としたものである。読者諸兄姉は既にお気付きの点ばかりだろうか。そうであれば実に頼もしい。但し、今回は紙面の関係で、数ある疑問点の中から、現在でも今後の早急な対応が求められると考えられる「指摘」について、先ずは一つだけご紹介する事とする。既にお気付きであればご容赦願いたい。
海外からの指摘は、政府の要請で稼動を逸早く停止された浜岡原子力発電所の問題である。当該発電所の稼動停止問題の前提は、近い将来発生する可能性の高い中南海(?)大規模地震に対して、福島原発同様に危険性が高いと考えられる為という事が、先の首相の自らのTV会見での説明であったと記憶している。であれば、稼動を停止している浜岡原発には、当該原子炉で核燃料棒はそのままの状態で置かれているのではないかと言う事実である。しかも、その核燃料棒を安定させる為に使用されている冷却水の確保はどうなっているのか、が問題である。恐らく電源は、福島同様に海岸線近くに設置されており、大規模津波が到来したと仮定したら、何が生じるのか?代替電源の確保はされているか、しかも、津波に影響される事の無い高台か、近くに高地が無いとすれば、緊急工事で堅牢なタワーを構築して安全の確保がされているのか。小生が知る限り、多分そのままである。であれば、危険性は同様で、停止云々の前の話となるが。如何?
お陰様で、棲家は大した被害は無く、精々棚からガラス類が落ちて破損、また、低めの棚が倒れた(引き出しが滑り出た性で棚ごと倒壊)程度で、高めの書棚や食器棚更に液晶TV等は普段から地震対策用の備えをしていたお陰でビクともしなかったのには、正に不幸中の幸いと言うところかも知れない。日頃から「無駄となる事を祈りながら、リスク管理を実行せよ!」と吼えまくる小生だけに、地震等の災害対策は完全で、日頃からの備蓄が効き、水や乾電池、食料などの生活必需品の全ては、慌てて対応する必要は全く無く、買い溜めに奔放する輩達には正直暗澹たる思いでいた。
読者諸兄姉も、日頃からの備えが必要だと言う事を、再度認識し、状況が落ち着いた段階で次の災害発生に備えて万端準備をしておくように提言したい。但し、必要備品を買い溜めるのではなく、使用しながら結果として「備蓄」となる対応をして欲しい。例えば、水であれば、2リッターペットボトル半ダースを二セット用意し、普段はコーヒーや飲料水として使用しながら、一セット6本を消費したら一箱追加する、つまり、最大12本、最低6本の水の備蓄は常に存在することなり、日常生活の負担にもならない対応である。この点ご理解戴けるだろうか。備蓄と言うと何処に仕舞おうか悩む事になり、また、一度買い込みをすると安心し、いざ必要になった段階では古くなって使用不能になっている例を見聞きする事が多い。缶詰類やインスタント・ラーメン、スパゲティ等の食料も使用しながら結果的に備蓄となる方法で備えて欲しい。最も効率的な方法は、例えば、キャンプなどの野外運動を子供達と一緒に行い、その時に備蓄食料を使用して、また新しい備蓄に切り替える方法である。こうすれば負担にならないし、子供達にとっても野外での生活はいざと言うときのサバイバル生活の実践以外のなにものでも無く、一挙両得になる。屋内でのテレビ・ゲーム等に明け暮れるよりもはるかに健康的でもある。今からでも遅くは無い、特にキャンピング道具(テントや照明器具、バーナー等の調理器具、寝袋や毛布等)は最適な災害対応の為の道具となり得る物であり、この際に見直しては如何だろうか。尤も、そうした活動が実際に役立つ事の無いように心から祈りながらやるのは当然の事だ。当然の事だが、そうした普段からの備えは、自らが災害に巻き込まれない限り、今回のような被災地への緊急支援物資として即座に提供する事が出来る事となり、全く無駄になる事は無い。
ところで、表題の件、この状況で一体何の事かと思われるかもしれないが、実は、昨今の東京電力(株)の存続等に関する様々な憶測報道等に関してである。丁度一年強前になるが、同様の事が日本航空(株)に関して生じた。その時も、敢えて弊ブログ欄(第18回)で苦言を呈した事を読者諸兄姉は覚えておいでだろうか。いま又、同様の事が政権政党を中心に実に勝手な発言等が勝手に飛び出しており、資本市場は混乱の真っ只中に置かれていると言っても過言ではなかろう。「風説の流布」と言っては申し訳ないが、発行会社である東京電力社から正式の発表も何も無いままに、国有化であるとか、銀行の緊急支援策とか、様々なニュースが飛び交っている。
当然に、同社が提供する電力は関東近隣の最大・最重要の社会的インフラであり、その存亡に関しては、三千万人以上の住民の生活と数多の企業の活動の基本的生存が掛かっていると言っても間違い無いものである。一方で、同社の株式は市場に上場されており、毎日売買の対象とされている。正確な情報の無いままに放置され、憶測と、「流言蜚語」に近い情報で多くの投資家が大混乱状況となっている事を政権政府は承知しているのだろうか。尤も、その話を出しているのが当事者だから始末に終えないが。先の日本航空社の場合と同様に、日本全国には実に多くの同社株主が存在している。配当目的での長期投資として株主になっている老齢の方々も多いと聞く。勿論、海外の投資家も数多い。小生の元には、「どうなっているのか?これで『資本市場』と言えるのか?当局も市場開設者も何の対応もしようとしない。JALの時と同じで、再度あの過ちを繰り返そうと言うのか?情報開示があれほど重要と言われているのに、貴国の市場に対する信頼性は今や崩壊しそうになってきているぞ!」との海外の友人諸氏からの質問か、苦言か、数多くのメールが送られてきており、その返事を書くのも儘ならないのが実態だ。
原子力発電所の事故関係の情報や放射線汚染の情報に関しても満足な対応をしていないと海外政府関係筋からも大きな批判を受けている現政権だけに、資本市場の事など関与しないと考えているのかもしれないが、「公正性」と「透明性」の確保は謂わば市場の生命線でもある。資本市場に対する信頼性が崩壊すれば、資本主義を経済の根幹とする我が国の存亡的危機にも繋がる重要な問題となる。大震災や放射能汚染問題等国家の危機的状況であるからこそして、より一層の市場機能の発揮が求められている事は疑いも無い事実であり、今後の我が国経済の発展、全国的に拡大をしつつある直接・間接の被災地の迅速な復興に関しても、市場の果たす役割は益々重要となってきている。そうした中でのこの対応については理解に苦しむどころか、日本航空のケースと一緒で、政府は市場機能を全く理解していないとしか言いようが無い。
当事者である東京電力社が、先ずは情報公開すべきだろうが、この問題に関しては、JALの場合と同様、既に「当事者能力」を喪失しているのかもしれない。もしそうであれば、遅きに失した感は否めないが、特に、多くの個人投資家に当該事実に関する注意を改めて喚起すべく、市場サイドで何らかの手を打つべき時期に来ているのではないだろうか。これ以上の状態放置は市場機能の喪失に繋がりかねない。
本件に関して、先日、或る市場関係者等と意見交換をしていたら、「我が女房が既に同様の指摘をし始めています。『JALの時と同じ間違いを又繰り返している。何らかの注意喚起をすべき。』と。」との言。心配すべき状況は何れ生じるかもしれない。情報公開が現時点で不可能なら不可能で、その事を公表すべきであり、決して巷間の憶測や噂を放置すべきではない。市場機能の発揮が強く求められている。
先ず始めに、今般の「東北関東大震災」で犠牲となられた方々、被災された方々に衷心からお悔やみとお見舞いを申し上げたい。本当に大変な災害でしたが、それに対する支援や復興等の戦いはこれから。我が国全国民で、力を併せ相当な覚悟を持ってこの困難に望むべきであり、今更読者諸兄姉にこうした事を改めて申し上げる必要もあるまい。希望を持って前に進むのみである。
また、今回の大災害に対する政権政府の対応の遅さ等に、お定まりの「批判」を展開しても何も解決しない。御願いだから、相当の迅速さで災害地・避難地域への物的・精神的支援は勿論、原子力発電所の未曾有の事故収束等に対する、考えられるあらゆる各種対応に邁進して欲しいと望むだけである。当然に、政権政党のみならず、各野党に置かれても、「我が国全体の速やかな復興」に向けて、可能な限りの政治的協力を惜しまない、と言うより、更なる積極的な政策等への参加に向けて努力を傾けて戴きたいと心から望んでいるし、これまでの真摯なご努力にも感謝している。
小生は占いだとか暦・干支等は余り信じないと言うよりは、殆ど興味無い輩の一人であり、これまでにも「方位」だとか「吉凶」だとかは、仮に聞いたとしても、これを完全に無視してきた。しかし、今回のこの大災害を目の当たりにして、本年始めにお会いした、小生の心の師のお一人であり、親しく御付き合いさせて頂いている高野山真言宗伝燈大阿闍梨大僧正であられる方が仰っていた今年の干支に因む話を思い出し、思わず震え上がってしまった。
この様な事態であるがゆえに、飽く迄も参考までだが、同師のお話を可能な限り思い出しながら、今年の干支である『辛卯(かのと・う)』とは如何なる年回りであるのかについて若干の説明を行い、今後の対応を万全のものにして行きたい。
読者諸兄姉は若干の知識を持っていると思うが、「干支」とは「十干」と「十二支」の組み合わせからなり、必ず六十年(10×12)に一度訪れてくるもの。今年は「卯」=ウサギ年だが、それは十二支でのみの言い方で、十干では「辛(かのと)」の年に当たり、併せて「辛卯」と表現する事が正確だとされる。
「辛」は、その字から「辛い・苦しい・耐え難い・惨い」と言う意味があり、易学(?)的には、上に向って求め冒す、つまり、今まで下に伏在していた活動エネルギーが様々な矛盾、抑圧を排除して上に発現する事を現すものであるとか。更に、「辛」そのものに「矛盾・闘争・犠牲」を含み、予期せぬ「大不祥事・大事故」や「大災害」が襲ってくる年回りとか。インターネットで調べると、後漢の書である「白虎通」で、「辛は殺傷の意を含む」と記されているとか。更に、「辛」は罪人や奴隷の額に刺青をするときに用いる先の尖った針のようなものを意味する語源「尖(とがる・しん)」から来ており、持久力・慎重・猜疑心・卑屈・高貴の気に乏しい等の意味があるそうだ。また、「辛」=「新(辛=新−木−斤)」であり、草木が枯死し、それを土台に新しくなろうとする状態を表しているとか。
また、「卯」とは「茆(ぼう)」=茅・薄等の茂みを表し、万物が芽生え、繁茂していく様相を示しているとか。一方で、「史記」律書によると「茂(ぼう=しげる)」であり、「漢書」律歴志によると「冒(ぼう=おおう)」で、草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとか。「卯」=ウサギは、後に人民に覚えやすくする為に動物の兎が割り当てられただけで、フランスやチベットの一部、ベトナムでは「猫」が割り当てられているそうである。
以上、総括すると、「辛卯」の年は、勇気を持って更新する事を断固として実施して行かなければ、必ず殺傷を含む、からい目・つらい目に遭う可能性のある年回りだとか。換言すれば、如何なる事態が現出しても不思議ではなく、歴史的にも、天変地異の異常や自然災害をはじめ、思いもかけない出来事が起き易い年とされているとか。我が国が近隣の国から痛みや苦しみを受ける可能性もあるとか。
つまり、「辛卯」の年には、常に、如何なる平穏な時においても、「憂うべき時」を念頭に置き、最悪の事態が生じた場合に備えることが必要な時期であるとの事である。国家的な「危機管理」が求められているといっても過言ではなく、その意味で我が国は今回の国難に関して、若干と言うよりは、相当に意識が薄かったと言えよう。しかし、今からでも決して遅くは無いと信じている。今回の大災害に対する更なる万全な対応を急ぐ事は勿論であり、既に官民協力して様々な支援策が実施されて来ているが、それとは別に、別途、今回の災害を教訓に、危機管理策の再構築を急速に行う必要が大きく求められていると言える。そして当該対応の迅速な実施可能性を確認する為のシミュレーションを常に行う事である。聞くところによれば、某企業はこのシミュレーション=訓練の実施を行ったばかりのところで今回の災害発生に見舞われたが、社内全体が訓練通りに迅速な対応を行う事が出来たとの事であり、更に、その際の対応不足点に関しても分析し、実施に移したとの事。正しく「危機管理」であり、これ以上に重要な事項は現在のところ存在するまい。
また、今回の大災害のニュースは世界中で配信されていると聞いていたが、小生のPCには、地震発生翌日以降、海外の友人達からも実に多くの安否確認や励ましを伝えるメールが届けられている。誰しもが同じだと思うが、本当に有難い事であり、我々は独りではない、世界中の皆と思いを共有しているのだと言う事が今回改めて確信出来た。当然の事だが、国や人種、性別は異なっても思いは全く同じであり、人間である限り変わりは無い。メールには、安否を確認する問い掛けと共に、彼等の素晴しい「思い」が言葉として添えられている。参考までに紹介する事としたい。
Our thoughts and prayers go to all those affected.
(我々の思いと祈りが被災者の全てに届きますように!)
Our thoughts and sympathy are with you and your family at this dreadful time, and we hope that the coming of spring and of the world famous cherry blossoms throughout
(心からのお悔やみを申し上げると共に、直ぐに訪れる春と世界に名高い桜の花が日本を蔽い、全ての人々の心の幸せをもたらしてくれますように!)
Ich wuenshche mir, dass Gott Euch beshuetzt und besteht.
(神が共に在り、守っていただく事を望みます。)
You are all very much in our thoughts and prayers.
(我々の思いと祈りは全ての人々と共にあります!)
Unser Haus steht fuer Dich und Familie jederzeit offen, wenn Ihr einen Aufenthalt in Deutchland vorziehen wuerden, bis die Geschichte dort etwas uebersichtlicher wird.
(もし現状が回復するまでドイツに滞在したいのであれば、我が家は何時にても
君と家族の為にあります。)
皆で頑張らなくてはならない!「今恐れるべきは我々の心の内底に潜む恐怖心だ。全員で勇気を持って前に進もう!」と言う言葉ほど強く感じる事は無いと思う。
早いもので既に三月。雛祭りも過ぎてしまった。『♪梅は咲いたが♫桜❀は未だかいな♪』なんて、都都逸ではないけれど、文字通りの三寒四温(四寒三温?)を繰り返しながら、段々に本格的な春の到来を感じるようになってきた今日此の頃である。と言いつつも、昨日は朝方から、また雪混じりの雨になってきたようで、冬の戻りと言ったところかな。
この季節にお定まりなのが各校で行われる「入学試験」の実施である。勿論、就職に関しても、小生の時代もそうだったが、実に数十年前からの「慣行?」で、この時期に採用枠の確定に向けて各社一斉にスタートしている模様。既に入学校や入社内定を獲得した子供達も多いのではないだろうかと推測するが、昨年に引き続き本年も就職戦線だけは凄い事になっているようで、時の政権も何時までも政治的混迷を繰り返している暇は全く無く、早期に雇用の拡大策についての施策を打ち出してもらいたいものである。
ところで、先週末の大手各日刊紙の一面トップ記事に、ネットを使用してカンニングした疑いのある受験生の逮捕に関する記事が掲載されていた。確かにこれまで想像だにしなかった事件だけに社会における衝撃は大きく、ニュース性はあるかもしれない。言い過ぎかも知れないが、たかがカンニングである。昔から、カンニングは受験資格剥奪、合格取り消しの処分で終わった。新聞の一面を飾るような内容のあるニュースなのだろうか。ひょっとして、こんな事で「逮捕」に踏み切った警察当局を揶揄するような内容の記事で、態と一面トップに持ってきているのかと勘繰った小生がものの見事に裏切られた格好の記事だった。とは言え、小耳に挟んだ話では、大学当局に対して、『こんなことで「逮捕」させるなんて見当違いも甚だしい!』との抗議電話が数百本も掛かってきたとの事だが。
また、大相撲に纏わる様々な事件にしても、暴力団に絡む賭博行為や八百長行為そのものはそれこそ論外だとしても、それによって放送自粛だとか、開催中止まで取り沙汰する事だろうか。「国技」とはいえ、関取はプロとして給金を貰い、その「興行」は観客に対して高額な有料行為として開催されている。「国技」と言えば、他にも柔道然り、剣道然り、様々に存在すると小生は思う。その半面で、協会そのものが公共事業として非課税法人扱いされて居る事は大いに問題だが、それでも相撲観戦そのものを楽しみにしている国民は相当数に上るものと考えられる。遠隔地に住み、高額な観戦料を払わなくても、公共放送であるNHK中継が見られるという事で楽しみにしていた、特にお年寄り達にとっては今回の対応は失望感が大きいと考えられる。NHKは先の放送中止に関して、『公共放送の観点から自粛せざるを得ない』と述べたそうだが、報道された限りによると、数万本の自粛要請に関する抗議電話が殺到したのが一因であるともされているとか。しかし、考えてみるに、この相撲番組の視聴者は一千万人以上居るのではないだろうか。何処かのモンスター・ペアレント類似の狂乱的な抗議行為を世間の一般意見と錯覚して批判記事を書き連ね、事実、放送中止に追い込むメディア各社の、これもまた「金太郎飴(何処を切っても同じ顔が出てくる)」的報道姿勢に疑念を感じるのは独り小生だけだろうか。
また、本当に下らない事件だが、昨年初頭に生じた或女性俳優の覚醒剤使用事件に関する報道にしても、これを芸能面で取り上げ華々しく報道するならいざ知らず、これも確か大手日刊紙は「逮捕記事」を一面トップや社会面で取り上げたと記憶している。最近も類似の事件を大きく捉えているようだ。事件の性格から、他の日本人に対する覚醒剤使用の恐ろしさに関する警告として利用する為に「スケープゴート」的に捕らえて殊更大きく報道したという弁解もあるだろうが、その事件を大きく捉えて報道する事によって、隠されたか、小さな記事となってしまった国民生活に重要な出来事が存在しなかったかどうか、振り返れば結構あったように記憶している。
何やら、取り上げたのが芸能チックな内容の事件ばかりだったので、余り適切ではなかったかもしれないが、何れにせよ、こんな種類の記事が全国紙の一面トップを飾るとは、実に平和な日本である。他に、数千万人の読者に一番で伝えるべきニュースは山ほどあるというのに、一面トップの記事がこれであり、各誌とも一様に当該事件に関する解説や批判記事が並べられていた。一つの事件が生じると、多分にヒステリック過ぎる対応で、各メディアが一様に同じ記事を掲載・配信し始め、恰もそれが国民総意の興味であるかの如く扱い、一斉に事件に関係する人物に対する非難や批判を展開する傾向が、我が国では特に強いのではないかと感じている。つまり、世間で生じる様々な出来事に対して「多面性」のある情報発信が余り無く、常に「金太郎飴」状態で、大半の国民はこれを不思議とも何とも思わずに、矢張り一様に「そうだ!そうだ!」と囃し立てる癖が往々にしてあると言う点だ。
いま、我々に大事な事は、先にも一度弊ブログで記載したはずだが、如何にして「真実を見抜く目」を養うかだと思う。それに、様々な考えがあっても一向に舞わないと信じている。メディアの報道をそっくり鵜呑みにし、国民全てが常に一方方向を向いている事自体が頗る不自然な状況であり、何時如何なる時に一握りの集団の赴くままに世論が操作され、思わぬ方向へ暴走し始めるかもしれない危険性を孕んでいるといっても過言ではあるまい。常に考えて、世の中で生じている事実=真実を把握・理解し、これに的確に対処する能力を磨く事だ。
特に、多分にヒステリックとも言える「批判」行動が生じた際には、これに軽々に同調せず、一度立ち止まって事実は何かを問い詰める余裕を持って欲しいと願っている。我が国特有の何でもかんでもの「批判文化」「バッシング文化」はそろそろ脱却しなくては、先行きが危ぶまれる。現政権に対する様々な批判も多分にヒステリック的になりつつある。批判すべきは些細な行動ミスに対してではなく、真に我が国の将来を見据えた政策が実行されているかどうかの点であり、これこそが国民一人一人が真剣に考えなくてはならない最大のテーマでもある。
最近漸く報道が活発になってきたガソリン価格の高騰は、多分に円高の影響でこの程度で済んでいる事を気が付いているだろうか。小麦粉を始めとする各種食料品の高騰にしても然りである。地球を取り巻く自然環境の大きな変化による不作等も大きな原因の一つだが、それにも増して大きいのは中国やインドの食糧消費量の暴騰である。食料自給率の極端に低い我が国の国民は、如何に代金を支払おうとも、彼の国々の力には及ばず、食料調達が窮乏し、近い内に「飢餓」に追い込まれるかもしれない。それよりも、これらの状況の変化でハイパー・インフレが訪れるかもしれない。雇用が確保されず、給与所得は低減される中でのこの事態の発生は、国民生活そのものを困窮させる可能性が高い問題ともなる。冗談の話では決して無い。
些細な事で批判を狂乱的に展開している暇は全く無い。真実は何かを国民一人一人が的確に捉えることが現在最も求められている。そして自らに出来る事は何かを考え行動に移す事である。他人が何かやってくれる事を期待するのではなく、自らが行動を起す事が重要だ。一億「評論家」「批判家」では何も解決しない。ひょっとすると「崩壊の足音」が直ぐ近くまで聞こえ始めているかもしれない。
]]>読者諸兄姉は良くご存知ではないかもしれないが、小生は、上手く説明出来ないが、簡単に言うと「三つの顔」を持っている。一つは、このブログが設置されているホームページでも明らかなように、(株)ENアソシエイ ツの代表取締役として、顧問先企業等の経営上のサステナビリティやインテグリティ等の確保の為の相談に応じたり、求められれば各種の講演会、セミナー、研修会等の講師として活動したりする「顔」である。またもう一つは、三菱商事(株)やオムロン(株)等数社の社外独立役員として、それらの会社の全てのステークホルダーの為に誠実な経営遂行をサポートする役目を担う「顔」である。そして、更にもう一つの顔が、週に一度だけではあるが、早稲田大学大学院商学学術院において、前期には「ベンチャー企業経営と『公器』への途」、及び後期には「上場制度に関する実務的検証と国民経済的観点からの考察―社会的存在意義に関する研究を中心に」と言うテーマで授業を受け持つ客員教授としての「顔」を持っている。最後のこの顔での生活において、小生としては以外でもあり、恥ずかしい事だが、偶に涙の出るほど感激する経験をさせてくれる場合が多く、それだけに人一倍想い入れも強いものがある。
例えば、客員教授としての最初の学期の終了時に、自分としては「やっと終わったか!生徒たちは授業に満足してくれたかな?」との感想を噛締めていた矢先に、確か小生よりも年齢的に先輩でもある生徒の一人が、突然立ち上がって確か次のような発言をしたのが最初の感激であった。曰く『先生、長い間の授業、有難う御座いました。我々生徒達皆で、勝手に長友塾を結成する事としました。授業が終わっても先生と塾生の皆で偶に集まり、飲みながら話しながら長いお付き合いをしたいのですが。どうか宜しくお願いします。』と。全く、感激以外の何ものでもない。
小生としては、ただただ「有難う!」と言う以外に言葉は見付からなかった。その後は、現在に至るまで、偶に可能な限りの人数が集まり、早稲田や、小生の事務所のある丸の内近辺の居酒屋で「長友塾」会が行われており、この4月末頃には日光鬼怒川温泉郷での合宿まで計画されている。皆既に忙しい社会人だというのにである。感激!である。
こうした話を先輩でもある大学院の某教授にお伝えすると、『先生、嵌まって来ましたね!(悪い意味での言葉の使い方ではなく)そうでしょう、そうでしょう、だから辞められませんよ!』との言。小生のような正式な先生でもない人間が、烏滸がましい事この上ないが、生徒達からの期待に、精一杯、心から応える為にも、間違っても手抜きするが如き授業は絶対に出来ないと、常に誓いを新たにしているところである。
先日の事だ。今年度後期の最後の授業を、一度だけスケジュールの都合上休講にしてしまったお詫びの気持ちも込めて、都内某所の廉価な寿司屋兼居酒屋に生徒達を可能な限り集めて、「授業」?「飲み会」?をやらしてもらった。(皆!安く済んだから大丈夫だよ。心配しないで良いよ!)三時間近くもワイワイ、ガヤガヤ騒いだだろうか。閉会を宣言しようと思った瞬間に生徒の一人が立ち上がって、『先生、楽しい授業、有難う御座いました。これまで教わった事を忘れずに頑張ります。これは皆の気持ちです!』と言いながら花束を取り出してきた。深紅のダリアや薔薇が沢山入っている立派な花束である。想像だにしなかった出来事だけに、またまた感激で一杯。思わず涙が出そうになり、堪えるに一苦労した。自宅に帰って女房殿に報告すると、『本当に良かったわね!だから遣り甲斐があるって常に私は言っているでしょう!』との言。我が事のように一緒に喜んでくれた。(『単純なんだね!』との批判は幾らでも受ける。本当なのだから。)そこで、弊ブログを利用して、生徒の皆に再度「贈る言葉」を届ける事とする。読んでくれるかな?
生徒達の内の大半は、これから院を卒業して実社会に再び出かけていく事になるが、先日の夜にも話をしたように、「信実を見る目」を常に磨きながら仕事に精進して欲しい。間違っても、「今日は昨日やった事をやれば良い。明日は今日した事をやるんだよ。」では駄目だ。常に学徒であれ!お互いに信頼し合える友人を多く作れ。一人一人の力はどんなに小さくとも、多くの友人の力が集まれば如何なる困難もきっと乗り越えられる。10人の真の友人を持てば、その友人達も10人の友人を持っている。つまり100人、1000人のブレーンを持つ事に繋がる。友達の友達は、本来の意味で皆友達だとの考えは本当に正しい。自らも常にそうした考えで全てに対応すべし。自らが誠実に友人に対応すれば、友人も必ず誠実に対応する。そこには損得も何も無い、真の意味での信頼関係が存在する世界に繋がる。今最も求められているのは、そうした人間関係の構築だと、小生は心底そう思っている。
郷里の銀行へ帰るA君。愛する妻子と離れ、東京で独り暮らした二年間は辛かっただろうが、本当に良く頑張った。これからは郷里の産業の活性化に向けて、力を尽くして欲しい。郷里で集めた預金は郷里の企業に優先して提供し、郷里の雇用の確保に繋げて欲しい。郷里に仕事が沢山あれば、沢山の家庭が子供達を態々都会に就職させなくて良い。郷里で就職し、結婚し、子供を育てる、それを可能にする為には郷里の産業の活性化と雇用の拡大だ。今後も今までと同様に是非頑張って欲しい。
京都の精密機器メーカーの営業職として赴任するB君。是非お客さんの声(Voice)ではなく、呟き(Whisper)を聞ける営業職になって欲しい。技術系と強固な連携を保ち、お客さんのニーズに合ったサービスの提供に努めて欲しい。既存の価値観を創造的に破壊し、新しい価値観の創造に向けて努力せよ。ニーズの存在するところ、イノベーションの進展が存在する。社会的存在価値の向上無くして企業価値の向上は在り得ないと信じて頑張れ。
資本市場に携わる仕事に突撃するCさん。上場の何たるか、企業が如何にあるべきかを充分に学んだ筈。市場の活性化無くして我が国経済の活性化は在り得ない。沢山の企業を育て、大きくする事によって雇用の確保と国民生活の安寧・向上は図られる。誠実な気持ちで本来在るべき市場の構築に努力せよ。一人の力は小さくても、真剣な努力を続ければ途は自ずと拓ける。叔父さん感覚的には早く良い女房・ママになって欲しいと言う気が一寸はあるけど。(御免!)
近い将来、政治の世界に打って出ようとしているD君。国民生活の安寧と更なる向上の為に力を尽くせ。徒党を組んで私利・私欲に動くような職業政治家にだけはなるな。「利他」の心が一番大事という事は企業ではなく、本来は人の世界で最も求められるもの。米国のオバマ大統領は40歳台前半で現職に付いた。知っての通り明治維新も30歳代の青年達が実現させた。若い宰相が我が国にもそろそろ出現しても良い頃だ。真の改革は君たちの手に委ねられている。小生も応援しているぞ!
これから就職戦線に出撃しようとしているE君。自らが生きて行くこの人間社会で自分は真に何をしたいか、再度真摯に考えてみよう。君には、他の皆と同じく、当然の事ながら無限の可能性が存在する。先にも述べたが、「真実を見抜く目」を持って社会を見つめよう。常に学徒たれ。
更に、「望めよ、さらば与えられん」の精神を忘れるな。自ら立てた目標をしっかりと見つめ、その具現化に努力を続ければ必ず望みは適う。
御免、君たち全員に、それも一人一人にメッセージを届けたかったが、長くなってしまった。頑張れみんな!力不足だったかもしれないが、小生の持てる全てを君たちに伝えたと思っている。これからは、君達が自らの篤い思いで社会に伝えて欲しい。小生が何時も授業で言っていた言葉を再度伝えて君達への「贈る言葉」にしたい。
「人生自古誰無死 留取丹心照汗青」
特に「丹心」を忘れないで頑張って欲しい。明日は君達の為にこそあると信じている。
]]>表題の言葉は、小生が言っている言葉では当然に無く、オーストリアの経済学者ヨーゼフ・アーロイス・シュムペーター(Joseph Alois Schumpeter)が、今から実に約百年前の1912年、その著「経済発展の理論−企業者利潤・資本・信用・利子及び景気の循環に関する研究(Theorie der Wirtschaftlichen Entwicklung)」の中で述べている有名な言葉である。同著は、一般の解説によると、「成熟した資本主義経済の複雑なメカニズムを分析したもので、ケインズの『一般理論』と並ぶ古典的な位置を占めている。資本主義経済過程を循環―発展の二段階的に把握し、革新・新結合という経済内部の自発的な発展力に着眼して、信用・資本・利子・利潤・景気循環等の動感論的問題を統一的に解明するものである。」そうだ。
そういう難しい話は別として、小生が表題で取り上げた言葉は、同書に曰く、「最適配分や均衡よりも、イノベーションの新たな指標の導入、或は、新たな指標の組み合わせによって生じる不均衡こそが、既存の枠組みを創造的に破壊し、経済発展を促す新たな価値創造・知識創造に繋がる」という部分からのもの。実に一世紀前の時代に、現代にそのまま通用する経済原理を解析したシュンペーター博士の洞察力に驚愕するとともに、改めてこの言葉の意味するところを考察してみようという考えに至った訳である。
読者諸兄姉には釈迦に説法だが、因みに、「イノベーション」とは、経済活動において旧方式から飛躍して新方式を導入する事であり、日本語では一般に「技術革新」と約される事が多いが、イノベーションは技術分野に留まらず、謂わばあらゆる分野での「革新的手法の導入」と考えるべきであろう。その為、イノベーションに関する指標は次の5ポイントと言われる。?新しい製品の導入、?新しい生産手段(方法)の導入、?新しい市場(販売先)の発見、?新しい仕入先(原料・半製品)の獲得、及び?新しい組織の導入である。更に、こうしたイノベーションを生じさせる人々の事を「アントルプルヌア(Entrepreneur)」=「起業家」と称する事も良くご存知の筈。
ところで、『何を今更、シュンペーターだ!』とお叱りを受けるかもしれないし、突然に「面倒臭い話」とか「何やら小難しい話」そうで、『ブログの記載事項には合わないよ!』とクレームが生じるかもしれない事を充分に承知で話をし始めたのには、これまた充分に理由のある話なのである。先日或読者から、『先週のゴルフの話は面白かったです。コンプライアンスとゴルフ、あんな話が良いな!分かり易くて!』と言うクレームに近いお言葉を戴いた。小生としては、「そんなに小難しい事柄ばかり取り上げているかな?」と一寸は思うのだが、弊ブログは「言いたい放大」で、おまけにクレームや感想は一切受け付けない事を信条としており、「別に無理やり読者に媚びて読んでもらう事を希望して設置したのではないよー!」との開き直りもあるが故に、このまま書き進めさせていただく事とする。
「既存の概念を創造的に破壊し、新しい価値創造に進め」との言葉を改めて思い出したのは、一週間近く前の話だが、自宅で夜半に何気なくテレビを見ていたら、某パチンコ・チェーンの店長を取り上げたドキュメンタリー番組に出会った時の事だった。都下の新店舗の開店を手掛けた当該店長が、『如何なるアイデアを出しても、反対が無ければアイデアとは言えない。多くの反対を説得し、それを具現化して初めて意味のあるアイデアと言える。今回の試みも、社内では当初大きな反対にあった。後は、実際の成果に繋げるだけ。』との話を聞いての事である。当該新店舗では、多分と言うか、確実に業界初と思われる「全店禁煙」の取り扱いである。パチンコ店といえば、煙草の臭いが凄く、又、近隣に迷惑を掛けるほどの騒音で有名で、この対策に当該業界は頭を悩ませていた筈だが、来店するお客さん第一に考えたら、全店禁煙なんて想像の範囲外の事、謂わば「常識=既存の価値観」であった事だろう。まさか「全店禁煙」を掲げて営業する店舗が出現するとは、業界としても驚愕の事件に違いない。
小生もパチンコぐらいは稀にするし、当然(?)に喫煙家でもある。でも、全店禁煙のアイデアが出せたかと言うと「否」である。この試みに対するアンケート結果によると、喫煙家であっても反対派は凄く少数であったとか。当然に店内に特別の喫煙室が別途設けられ、愛煙家への配慮は欠かしていない。また、この試みによる来店客数の減少も生じていないと言うよりも、こうした試みを歓迎するパチンコ愛好家が押しかけて大賑わいとか。また、従業員が大箱の出玉(10KG以上の重量だとか)を運ぶ手間隙を軽減するべく、出玉は自動的にパチンコ台内の計量ケースに収納(?)されるよう、新機種も同時に導入したとか。これにより、玉自体の軽減が図られ、経営効率が向上したとか。また、従業員は、余分な力仕事が軽減された代わりに、自らが何を如何に対応すればお客さんに快適にパチンコ遊びを満喫してもらえるか、自らが考え行動するようになり、店舗のイメージ向上にも繋がったとか。正しく既存の価値観を創造的に破壊し、新しい価値創造に繋げる「アイデア」である。
良く言われることだが、ビジネスの成功は「アイデア」の勝負次第とされる。如何に大きな会社の従業員でも、「今日は昨日やった事をやれば良い。明日は今日した事をやれば良い」のでは、その会社の更なる発展は期待出来無い。常に改善を試みて行く事、常に時代・環境の変化を見据えて、その変化を先取りし、的確な対応を図るべく努力を続ける事、それによってこそ次なる発展に繋がる事は疑いない。弊ブログでも、進化論のダーウイン博士の言葉である「生き残る種族とは、力の強い種でも、賢明な種でもなく、変化に最も適応しうる種である」との言葉を引用した事は何度かある筈で、読者諸兄姉も御存知の通り。シュンペーター博士の言葉も、これと何ら変わるところはあるまい。
パチンコ店の話を持ち出して大変に恐縮だが、翻って我が国の現状は如何だろうか。既存の価値観に囚われてばかりでは経済も社会も閉塞してしまう。今こそ新しい価値観の創造に一体となって取り組むべき時なのに、本来の進むべき方向を示す事も無く、既存の価値観の保守に汲々としている向きを見るにつけ、我が国の先行きに大きな不安を感じているのは小生のみでは決してあるまい。リーマンショックから既に二年以上が経過した。世界は今やBRICS新興諸国を中心に動いて来ている。新しい価値創造に向けたアイデアが数多く出されている。未だに本格回復が果たせていないのは、世界広しと言えども恐らく我が国のみではなかろうか。デフレの解消も進んでいない、財政再建といえば「増税」しか思い起こせない、新興企業の育成を通じた雇用の確保どころか、それすらもシュリンクしているのが実情。何とかしなくては「日本」が滅びる!との感覚は、大袈裟過ぎて異常と言われるのだろうか。小生はそうは思えない。
でも、読者諸兄姉、今こそ頑張って、お互いに、「既存の価値観を創造的に破壊し、新しい価値創造」に向おう。未だ遅くない!未だ間に合う!ルーズベルト米大統領が80年以上前の大恐慌から自国を立ち直させるために国民に呼びかけた言葉がある。曰く「米国民よ、今我々が最も恐れなくてはならないのは、自らの心の奥底に潜む『恐怖心』だ。今こそ、恐怖心をかなぐり捨て、真の勇気を持って大きく前に出よう!」」と。
蛇足だが、パチンコ店の改革に関して、騒音対策に「イヤホーン」システムの導入というのは如何かな?「あの音が必要だよ!」との反対の声が多ければ、あの店長は又燃えるのだろうか? −本当に蛇足でした−
]]>読者諸兄姉は、既に十二分にご理解の事と思うが、コンプライアンスは、通常翻訳されている「法令遵守」と言う意味ではなく、それ以上に「全てのステークホルダーの期待に応える」と言う意味である。これまでにも同様の解説を試みた。どうしても定義を明確にしようとすれば、同語の語源や具体的使用に関して説明する必要があり、従って、厭でも「英語」に触れざるを得ない。
これまでも、各種の講演会や大学院の講義などで解説したり、引用したりする度に一種のもどかしさを感じるが仕方の無い事である。曰く、「コンプライアンスの語源は、『comply with another’s wish(他の人々の期待に応えること)』であるとか、コンプライアンスと言う言葉を使用した小説に、十六世紀のイギリスの作家ジョン・ミルトンが著わした『Paradise Lost(失楽園)』(この小説を引用するときは聴衆の眠気を覚ます為に、渡辺淳一氏の書いた小説『愛の流刑地』との関係を面白おかしく話す事が多い)があり、その一節に、愛人である彼女の事を表現した『All her wards and actions, mixed with love and sweet compliance(全ての彼女の言の葉や振る舞いは、私に対する愛と必死に期待に応えようとする気持ちに満ちていた)』という記載があるが、まさか「甘い『法令遵守の気持ち』が入り混じっているものであった」などとは翻訳し得えない、従って、語源的にも「ルールを守っていれば何をしてもいいというのではなく、それ以上に、他の人々の期待に応えるべく、誠実に行動する。」という意味であると解説してきた。この事は、読者諸兄姉は「耳に蛸(?)ならぬ烏賊(?)が出来た」程に良くご存知の事であろう。
ところで、それと表題とが如何なる関係にあるのか、それこそ良く理解出来ない話かもしれないが、実は大いに関係する話なのである。つまり、小生もゴルファー(凄くへタッピー!)であるが、プレーする度に、先行する組の我が儘に近いスロー・プレーや、フェアウエー若しくはグリーン上でのディポット(スイングの後や、落下球が造った穴)を整地していないとか、果ては、バンカー内でのプレーの整地を放置してある状況とかを見つけるにつけ、怒りよりも悲しくなってしまう昨今である。また、自分はこのクラブの会員だとか、自分で金を払って遊びに来ているのだからと言う感覚からか、同伴するキャディさん達をまるで召使いでもあるかのようにぞんざいな口調で命令したりする「輩」の存在には、如何に小生でも「反吐が出る」思いで、思わず注意する事も無いとは言えない。正しく、コンプライアンス意識を持ってプレーする事が求められているからこそ、俗にかどうか知らないが、所謂「紳士のスポーツ」とも言われているものの一つなのであろう。ルールを守っているから何をやっても良いとは、如何なるスポーツでもそうだが、特にゴルフは「紳士」「淑女」としての嗜みが求められていると言っても過言ではあるまい。
先日、小生が所属する某ゴルフクラブの会員親睦会に参加した折の話だ。プレー終了後に参加者全員で、ビール等を飲みながら先輩会員の方々や、理事会役員の方々から様々な参考になるお話を承った。特に、フェローシップ委員会委員長のお話こそが、会員であるが故にこその「コンプライアンス意識の更なる確立」というお話で、『プレーの規則を守るだけでなく、後続のプレーヤー(=会員・仲間)の為にも、例えばディポットやバンカーの整地はキャディさんの仕事ではなく、自分の責任であると言う意識で積極的に行うべし。他のプレーヤーが気持ちよく競技出来る様に努力をする事によって、当倶楽部の品格の向上に繋がり、会員権価値の向上にも繋がります。』との言、正しくその通りであり、小生も常に言っている経営の真髄としての意識となんら異なる事は無いと改めて確信した次第。
その後、求められて、小生は、彼のフェローシップ委員会委員長の言を引用しつつ、冒頭に述べたコンプライアンスの話をしながら、「先輩である同委員長のお話にあったとおり、ルールを遵守することは勿論、それ以上に他の競技者が気持ち良くプレー出来るよう、誠意努力しますので、どうかフェロー(仲間)としてのご指導を宜しくお願いします。」と発言すると、とんでもない暴言(少なくとも小生はそう感じた)が会員の一人から勝手に飛び出した。曰く、『横文字ばかりで何言ってんだかワカンネーヨ。後から解説したっけ、ワカンネーものはワカンネー!横文字喋るなヨー!(方言?)』との言。一瞬、場が静かになり、不愉快な気分になった会員諸氏や、司会の先輩会員も如何に対応しようか、若干の動揺も見られたようであった。完全に欠如した立派な発言である。さぞかし、発言者は気持ちの良い事であろう。「フェローシップ(仲間意識)なんか『糞食らえ(不適切な表現、心からお詫びします)』、会員権を自分で金払って入手したから、何やろうが自由だっぺ!文句言われる筋合いは無いべよ。かっこつけて横文字並べんじゃねーよ!」とでも言わんばかりで、その場に居合わせたほぼ全ての人々の気持ちを相当に悪くさせた、否、「不愉快な気持ち」にさせたもの。何の為に会員として「親睦会」に出てきたのか、先輩達の話を如何なる気持ちで聞いていたのか、子供でも理解できる話であるのに、自分では、心の中と言うよりも、耳の中にも何も残っていない、そうした事実を感じさせる発言であったと感じた。
コンプライアンス、具体的には、競技するに際しての心構えとは、自らは勿論、他の人々も気持ち良くさせる配慮なのである。この事は、常に小生が訴えているように、会社経営のみでなく、ゴルフは勿論、全ての凡そ人間として行動する際の最低限の常識であり、条件であると心すべきものと考える。自らの行動が恥ずかしいものであるかどうかは、常に人知を超えた存在としての「神」でも「仏」でも、「アッラー」でも、天に対して問い掛け、自ら判断を下すものである。法律で規定していないから「自由」であり、何をやっても良いと言う事にはならない。
因みに、横文字が嫌いだという御仁に対して、参考までに和語を考えてみた。例えば、パーは「規定打数」、ボギーは「規定打数超過一」、バーディは、余りやった事ないから頭に浮かばない。また、バンカーは「場内障害砂場」、ドライバーやスプーンなどは、打棒一番・三番、OBは「場外球」、パターは「平行打棒」、アイアンが思いつかないが、こんなものかな?もっと適切な訳があれば読者諸兄姉氏も考えてみては如何。実に馬鹿馬鹿しい事だ。今回の件で、ゴルフ雑誌を改めて買い求め、何故にパーと言うのかとか、ボギーやドライバーの意味を勉強した次第である。
小生の愛するゴルフ倶楽部は沢山あるが、そこでお会いする方々は須らく尊敬し敬愛申し上げる素晴しい方々であり、常に自らもこうでありたいと参考にさせていただく方々ばかりである。たかがゴルフ、されどゴルフ、常にコンプライアンスの意識を持ってプレーし続け、プレー後は他の方々は勿論、同時に自らも気持ち良く、清々しい心で帰宅出来るように努力したいものである。少なくとも、他の会員やプレーヤーの「期待」に背く事があってはならない。ゴルフにおいても重要なのはコンプライアンス意識なのである。
]]>新年、明けましておめでとう御座います。今年は、当ブログの読者諸兄姉に、『またサボっている。真面目に定期的にちゃんとブログの更新をしろ!』と叱責のお言葉を戴かないように、「張り切って頑張ろう!」とは思うのだけど、こう世相が最悪だと、怒り狂って、何を書き始めるか分からないので、その筋に目をつけられない様に充分に気をつけて更新に努力しようと思っています。何卒ご容赦を。
ところで、表題の件、新年早々に『何を今更!充分に理解しているよ!』との謗りを受けそうだが、この言葉の意味を本当に理解しているのか、様々な場面で疑問に思うことが実に多い為、再度、本来の意味を考察してみようという考えに至った訳で、まあ、読者諸兄姉におかれては、我慢して、小生と一緒に考察してみて欲しい。
「Governance」という言葉から直ぐに思い浮かぶのは「Corporate Governance」(往々にして『企業統治』と翻訳する事が多いが?)かな。これは、90年代末頃の企業不祥事の多発から、特に米国において、従来にも増して大きな声で議論され始めた言葉である。我が国でもこの当時から議論が沸き、翻訳にも苦労したと聞く。当時も全く議論されなかった訳ではないが、「景気の高揚時、株式市場の活況時等においては、ウォール街でも、この言葉を投げかけられた人々は、『コーポレートなんだって(Cooperate what?)』と意に介さない状況だった!」と米国大手経済紙ウォールストリートジャーナルはそのコラム欄で嘆いていた。当然に、企業の本来あるべき行動等=誠実な経営=に関して、これを確実にする為の取締役会・監査役会等の構成や業務執行に関する監督体制等の事を指す事は、今では周知の事である。でも、本当にそうだろうか?その真に意味するところを現在の企業経営者等は理解しているのだろうか?残念ながら、小生のこれまでの少ない経験でも、この事は甚だ「疑問」と言わざるを得ない。
「CSR(企業の社会的責任)」という言葉一つを取ってみても、これを「社会に対する慈善活動」と誤って理解し、挙句の果ては、『業績が昨今低迷し始めているので、CSR活動を収縮若しくは停止させては如何か?』との提案が、業務執行サイドで実際に語られる事があるやに聞く。幸いな事に、小生が社外役員等を務めている企業では有り得ない話だが、読者諸兄姉は聴いた事は無いだろうか?「企業の社会的責任」とは、当然の事ながら、「企業が存在するこの(人間)社会に対する責任」の事。つまりは、社会の全てに対し誠実に行動する事を指す。事業活動を行うに当たって、地球環境に対する配慮や、人間社会の継続性に関する配慮は勿論の事、企業を取り巻く株主、顧客、消費者、社員等々、全てのステークホルダーに対して誠実な企業経営を実践する事が企業に求められた「責任」であり、それを具現化する体制が「ガバナンス」である事を理解すべきなのだが。実際は、甚だ疑問なのが現状である。
コンプライアンス(Compliance)と言う言葉も誤って理解されている可能性がある。CSRと同義語と言って良い概念である事を理解しているだろうか?翻訳が「法令遵守」とされてしまったので、『当社は法令の遵守に対して、万全の体制を整備しています。』と誇らしげに語る経営陣は多いが、一寸考えれば、その本来の意味は容易に理解出来る筈である。人間社会において自らの存在を継続させる為の最低限の決まり事が「法令等」であれば、それを遵守するのは最低限の責務であり、誇れる事ではない。コンプライアンスとは、その語源でもある「comply with another’s wish」でも明白な様に、「企業を取り巻く全てに対して、その期待(誠実な経営)に応える事」である。法令すら遵守し得ないで、何故にこの社会に存在しうるのか?そんな事は当然として、企業活動の大前提として、人間を含み、この地球上に存在する全てに関して、その快適な生存等を維持する為の対応をするという事に尽きる。最近良く言われる「環境への配慮」や「人間社会への配慮」はここから生じると言う事である。法律で禁止されているからやらないのではなく、全てのステークホルダー等の期待に応える事にならないからやらない!と言うのが、コンプライアンスの真の意味であり、当然と言えば当然の事だが、畢竟、CSRもコンプライアンスも、考えれば「同義語」に過ぎない。そして、そうした行動を具現化するための体制が「ガバナンス」と言う事になる。
勿論、この「ガバナンス体制」は、企業にすれば「コーポレート・ガバナンス」と言う事になるが、国の政権に関しては「ガバメント・ガバナンス」とでも言う事になるだろうか。因みに、何処かの政治家が、『法律で決まっている訳ではないので、(例えば)辞任する必要は無い』とか発言された様だが、法律で定められていようがいまいが、人々の期待を損ねた行動をしたかどうかについて、自らの行動を「天に尋ね」た上で、対応を図るのが当然であり、そうした行動を確実にする為に「ガバメント・ガバナンス」が必要であり、何も企業サイドのみの問題ではない事を理解しての御発言とは考えられない。
因みに、大分前の話で、実際にあった事だが、或スーパーマーケットで火事があり、亡くなった方々がいた。その店舗にはスプリンクラーが設置されていなかった。法律では、当時、例えば1000?以上の店舗にはスプリンクラーの設置が義務付けられていたが、当該店舗は約950?で、経営者は「当社は、法律は守っていたのですが」と言ってしまった。これって、当然に現在では、危機管理意識も無ければ、顧客の安全性への配慮も全く欠けていた、ガバナンスとコンプライアンス意識の欠如と捉えられるのもだが、こうした意識の欠如は、未だに存在すると言っても過言ではあるまい。上述したように、コンプライアンス意識とは、「遵法」は当然の事、周囲の期待に応える意識を指すもので、「法律を守っているのだから文句は無いだろう!」では全く駄目で、翻れば、法律を守っていれば何をやっても良いのかと言う批判に晒されるのは必定である。
ガバナンスを確立し、CSRやコンプライアンス意識を充分に高めて、自らの行動に反映させる必要性は何か?当然に「(企業)価値の向上」である。企業であれば、こうした考えに基づき、実際に誠実な経営を実践すれば信用力が増す。当然に顧客の信用向上は売上高の向上と収益の拡大に繋がり、投資家の信頼は市場価値の向上と資本力の向上に繋がる。従業員の労働意欲の向上により、効率的な経営の実践も更に向上する。建前だけのCSRやコンプライアンス対応では何の意味も持たない。実践し、継続する事に重要性が存在する。往々にして、「対応策」の策定で安心してしまいがちだが、重要な事は対応策を実際に正確に動かす事が重要であり、これ以下でも以上でもない。特に「内部統制」制度の整備に苦心した企業群は、整備が終了してほっとしているのでは全く駄目で、実際に動かすこれからの実践次第に掛かっていると言える。また、対応策の策定終了の段階で、状況の変化に拠り、既に陳腐化していないかどうか、常に見直す作業が必然的に必要となる。変化を先取りし、的確な対応を行う事は、常にあらゆる面で求められている事を忘れてはならない。
近年、海外の投資家を中心に投資尺度に変化が見られると言う。つまり、これまでの財務数値一本での企業評価のみでなく、企業のサステナビリティ(維持継続性)の確保に重きを置いた、非財務情報に関する情報開示が活発化してきた事である。これに関連して、特に欧州を中心に「E/S/G」に関する開示の重要性が大きく注目され始めている。「E」とはEnvironment(環境)であり、「S」とはSociety(社会)であり、最後の「G」はGovernanceを指す。つまり、企業としてEとSに関して、如何なる対応、関与を行っているか、それを如何なるガバナンス体制で実践しているかに関する情報の提供である。読者諸兄姉は既にお気づきの事と思うが、当然にこの三つは並列ではなく、EとSへの対応を確実に実践するものがガバナンスであり、ガバナンス無くして実践は有り得ない。お題目を掲げているだけでは、この三要素に関する説明責任は到底果たせない事になる。小生が関与している某企業では、既にこの重要な三要素を経営の中枢に据え付けて、更なる企業価値の向上を目指そうと、自らの中期経営計画に正面から盛り込んでいる。曰く、「継続的な企業価値の向上を図る事とは、?経済価値の継続的向上、?環境価値の継続的向上、?社会的価値の継続的向上を図る」として、お題目ではなく、これを実際のものとするための各種具体策を講じて公表した。当然に、特に海外の反応は頗る大きいと聞く。こうした実際の活動が、企業のサステナビリティを確実なものとし、その価値の向上にも直接に繋がるものである事を、今こそ心の底から認識すべきである。
新年早々に「堅い話」になってしまったかもしれない。読者諸兄姉に対しては、心からお詫びする。経済の状況がこうであるからと言って嘆いてばかりいても何も始まらない。企業でも、各個人でも、自らの社会的存在意義向上の為に、自らのガバナンスを見詰め直し、未来に向かって大きく前進する事が求められている。勇気を出そう。頑張れ日本、頑張れ日本人!
]]>早いもので、今年も師走を迎えた。年末と言う訳でもないけれど、このところ外部での会合(要は「飲み会」)が多く、参加する度に、実に多くの方々から、『ブログの更新をサボっている!もう二ヶ月も書いていない!如何云う事なのだ。しっかりしろ!』とのお叱りを賜っている。ご指摘御ご尤もである。確かに、インド出張の話をブログで更新したのが10月初めだから、サボっていたとのご指摘は正しい。しかし、反論させていただけば、既に周知の如く、この2ヶ月間余に実に様々な「我が国の在り様」の根本に係わる事象が生じ、それに対する政府諸機関等の対応の不甲斐無さに、読者諸兄姉同様、「怒り骨髄」であり、このままでは『何を書き出すか判らないから、暫く大人しくしていなさい!でないと危ないわよ!』との、我が家の山ノ神の御命令で、暫く筆を置いていた次第。
さて、この数ヶ月で、外交面は置いとくとしても、スポーツ等の競争面では、面白いというか、感慨深げな出来事が多かったと感じている。相撲の世界では、白鳳との優勝決定戦で、惜敗した豊の島が「悔しい!」と涙する姿は見ていても、「頑張れ!次がある!」と応援したし、女子バレーボールでは、惜しくも優勝は逃したが、数十年ぶりのメダル獲得に関係者の涙する姿に感激した。惜しくも世界戦には出場出来なくなったが、『今後の戦いに努力する!』と強く誓っていたフィギアー・スケートの浅田選手の笑顔(?)。昨日も、ゴルフの世界では、今期最終戦での「年間賞金王」獲得を掛けた熾烈な戦いが行われ、藤田選手が優勝し、金選手が王座を獲得した。惜しくも敗れはしたが、我が山の神が愛して止まない石川遼選手の「全力を尽くした!」との言に、これもまた感激と言うか、爽やかさを感じるものだった。
スポーツだけでなく、如何なる世界であれ、如何なる場面であれ、目標を持って努力する者は、「勝つ!」ために努力している。決して「一番でなくても良い」と考えている者は居ない。仮に、「一番」と言う言葉が不適当ならば、「合格する為」に、「成功する為」に、「勝利する為」に、「何かを勝ち取る為」に、常に努力を続けていると言っても過言ではあるまい。否、その目標が存在するが故に、努力する力が湧いて来るのだ。人間は「目標」無しに、無目的に行動する事は出来ないはずだと考える。「そんな事無い。毎日、唯漫然と生きている!」と反論する輩も居るかもしれないが、それは嘘だ。「生きるための努力」が存在しているではないかと、反論したくなる。
どうして、今回、言わずもがなの、こうした当たり前の事を改めて書き始めたかと言うと、何処かの大臣が、政府の「事業仕訳」作業の席上で、『一番でなくてはいけないのですか?』と質問した事を、今更ながらに論う為にではなく、小生自身、様々な場面で実感し、我が国国民に現在最も欠けている事はこれではないかと考えさせられた経験が、先のインド訪問の際にあったからである。それが、表題にある「Learning for winning」の標語である。
インドはバンガロール市にある某IT企業を訪問した時の事である。同社の研修センター(社員・地元学生・海外留学生用)を見学させてもらった際に、教室の黒板の上に掛けてあったスローガンがそれである。少なからざる衝撃を受けたのは一人小生だけだっただろうか?「勝つために学べ!」とは。インドは、急速な発展を遂げているからと言っても、これからが勝負の時である。国内のインフラ整備は、国民生活の向上の為に、交通網の整備、水道事業整備、電気通信網の整備等を始め、やるべき事は山積している。発展しているからと言っても、現状は、小生自身が肌で感じた限り、問題解決は全くこれからの大きな課題であり、全ては「始まりが終わった程度」との感が強い。これらの課題を一歩一歩、確実に遂行するためには、通常の努力では儘ならない。10数億の国民全てが、不退転の決意で努力をする事で、漸く達成されるものであると信じる。その為の、特に、学ぶ研修生達に対する力強いスローガンであると感じた。この標語の元での頑張りが、これからのインドを真に変革させていく原動力になるのだろう。10数年前に始めて中国本土を訪問した時に感じた、ある種の高揚感を当該研修センターの標語に強く感じた次第である。
翻って、我が国は如何か?長年に及ぶ「ゆとり教育」のお陰(?)で、全ては「平等」が善しとされてきた。例えば、小学校の運動会でも、かけっこは同タイムに近い子だけで走らされ、皆「一等賞」とか。モンスター・ペアレンツの影響か、学芸会での主役は全員。従って、大勢の桃太郎が舞台を走り回っている状況とか。π=3を基本として勉強を進めてきたお陰か、我が国有数の某大学の応用物理学科の合格生で、真実かどうか定かではないが、満足に微積分の計算が出来ない者もいるという、信じられない状況だと嘆く教授の話も聞いている。「ゆとり」教育とは、「心のゆとり」を持たせる為の教育であり、授業時間を削って遊ばせ、π=3で教育するものではなかったはず。全てが平等とは、「競争条件について平等であるべきであり、勝敗に関して平等であるはずが無い」という事を、マスメディアを含めて反省すべきだが、未だに自己批判も無く、何時の間にやら、全てがうやむやのままに元に戻りつつあると言う。
海外に目を転じると、留学する若者が極端に減少しているとか。小生が例年招聘される会議が開催される英国のケンブリッジ大学や米国エール大学で感じた事は、留学生の殆どが中国か韓国の学生達。日本人学生に会うのは稀有で、漸く現れても、女学生数名のみ(失礼!男尊女卑の感じで言っている訳ではない)。男子学生に会うのは殆ど無い。『海外に住むのはリスクがある。国内留学なら大丈夫。』とかで、小生が授業する早稲田大学大学院でも、企業派遣の学生が多くいるが、海外留学に関して聞いてみても余り反応が無い。本当に残念な事である。
リーマンショックから既に2年以上経過した。我が国経済は、世界でも孤高の低迷を続けている。いまこそ、将来を見据えた必死の努力が必要な時なのに、その力が一向に見えてこない。政治が悪いといっても、どうせ何もしてくれない。このままでは悪くなる一方。現政権は殆どの日本国民が自らの選挙権を行使して誕生したもの。国民が現状に対する責任を自ら負うべきものである事は疑いの無い事実である。そうであれば、今こそ、国民一人一人が、表題スローガンを胸に刻んで力一杯の努力をするべき時ではないのだろうか。
NHKの大河ドラマ「坂本竜馬」が終了した。『かっこよかったね!』ではなく、幕末において、日本の在るべき姿と将来を見据え、その具現化の為に、命を燃やして努力を続けた彼の「熱情」をこそ見習うべき時でもある。「Learning for winning」でも良いし、「Doing our best for winning」でも良い。「勝つ為に最善の努力をしよう!」が現在の我が国に最も欠けている事であると感じているのは、正に、小生一人だけなのだろうか。決してそんな事は無いと信じているのだが。
因みに、ずっと先に紹介した中国宋代の最後の宰相「文天祥」が書いた漢詩『過零丁洋』の最後の部分での表現で、「人生自古誰無死 留取丹心照汗青(人生、古より誰か死なからん、丹心を留め得て汗青を照らさん=人として生まれ、これまで死を免れた者はいない。そうであるが故にこそ、常に丹心を心に留めて、自らの歴史に名を残せ)」と言う意味を表したものがある。「丹心」とは、忠誠心・誠実性・忍耐と言う意味もあるが、最も強い意味の一つが「熱情」という意味である。特に、若い読者諸兄姉にこの言葉を捧げたい。「熱情」を忘れずに、勝つ為の努力を続けて欲しいと、齢還暦を過ぎた老年の筆者は心からそう願っている。勿論、老齢を馬鹿にするでない!小生だって「熱情」をもってこれからも努力する積り。生涯学徒であろうとする気持ちは誰にも負けない積りである。
]]>それにしても、往路も大変だったけど、復路はもっと大変で、齢還暦を過ぎた小生としては、つくづく体力の衰えを感じた今回の海外出張でした。何が大変かって? 帰国の為の飛行に費やした体力は想像以上で、他の御同僚の方々、特に還暦過ぎの方々は、小生同様に「本当にお疲れ様!」という感じがあると思っている。それもその筈、北部のデリーや西部のムンバイと異なり、ANAやJLのバンガロール市直行便が存在しない為に、小生が属する班はシンガポール経由となった為でもある。他班でバンコク経由も同様だったと思うが、帰国に際しては、先ずバンガロール空港発土曜日のPM11:30、シンガポール空港着日曜日のAM6:00(時差2時間半の為に頭の中はAM3:30)、更に乗継の成田便がAM9:30出発という予定。待ち時間が3時間半と言うのは比較的短い為に助かったが、欧州便や米国便と異なり、飛行時間が細切れの為に、睡眠による時差調整は殆ど不可能に近い。今になって考えるに、成田に到着した日曜日の夜半には、前夜から計算して都合丸36時間以上全く寝ていないのと同様の体の状態。そりゃあ、還暦過ぎた「おっさん」には相当に辛いフライト行程だったという事になる。今回の出張に出陣された方々、事務局の方々のご苦労も相当なものでしたが、小生を含め、老骨に鞭打って頑張った諸兄に心からのお労いを申し上げたい。本当にご苦労様でした。
ところで、読者諸兄姉には、『何故にインドへ?しかもバンガロールって?』という疑問が沸いているのでは。それも当然だろう。実は、某社のトップの強い意向で、近年急速なスピードで発展を続けるインド経済等を経営陣自らが直接に肌で感じ、今後のアジアを中心とした最重点課題であるグローバル戦略(各社とも最重点課題として活発な議論が行われていることも当然)を如何なる視点から捉えて構築していくかを考える糧にする為に、実施したもの。事実、その成果は十二分に挙げられたものと小生は強く感じた。更に、この機会を捉えて、滞在中に取締役会をも実施するという事で、これも十分な成果を挙げられた。と言うのも、正式の取締役会は、法規制(?全員日本人だから当然か!)の関係からも「日本語」で行われたが、その後の意見交換会では、出張してきた同社海外組の代表団と相互に全員が「英語」で全て行い、驚くべき事(御免なさい!)に、実にスムースで活発な議論が戦わされた。英語を会社の公用語になんてマスコミで騒がれている会社も二三あると聞き及ぶが、自然体で、全員が平然と英語にて議論している会社はあるんだよ!って大きな声で云いたくなるぐらいに素晴しい会議も実施された事は、小生として、今回の一大収穫の一つであったと真実感じている。
さて、インド共和国の近年における発展振りは実に目覚しいものがあり、その事は読者諸兄姉も充分にご存知あろう。小生の関係する某商社も、先頃発表した中期経営計画において、経営戦略上の最重要国を三カ国挙げたが、その中には当然にインド共和国が、中国・ブラジルと並んで表記されている程。名目GDP総額では既にロシアを凌駕、2015年―20年には中国と並んで世界最大規模に膨らむ事になるのではとの予測もある。また、現地訪問先企業で説明を受けた中には、従来の農業中心(60%強)の産業から、工業、IT、サービス産業への変換を続けており、GDP比での農業依存度は実に18%弱にまで下がっているとの事。また、人口の問題も脅威である。一人っ子政策を採ってきた中国では、年齢別人口ピラミッドに歪み(下辺が収縮している)が見え始めているが、インドは実に綺麗な正三角形に近い形をしており、労働生産力は鰻上りに近いと云われている。また、富裕層、中間富裕層の激増は国内消費動向に大きなインパクトを与えており、家電品や自動車はもとより、あらゆる消費財の購入にも積極的に動き始めているとの事。統計上の数値だが、2005年に1800万世帯強(8.86%)の中間富裕層以上の世帯数が、15年には6370万世帯、25年には1億3700万世帯に膨らむとも予測されている。聞く限りの話だが、こうした経済発展の動きを背景にした生活様式の大変革、都市部と地方農村等の格差の緊縮によって、従来ネガティブな要素の一つで、大きくは4階層、実際は300階層以上あるとされるカースト制が、急速とは云わないまでも崩れ始めている可能性があるとの事。全てが薔薇色であるとは決して云わないが、現地会社や工場などを見学させていただき、実体験として感じた事だが、インドの人々、特に働いている若者の向上心に溢れた態度には感銘を受けた。我が国の若者も負けてはいけない、自信を持ってもっと頑張るべきだとの感じを強くしたところである。
特に、今回訪問したバンガロール市は、インド共和国のシリコンバレーと呼ばれているIT産業の中心地であり、海外IT企業やインド企業の進出が著しい処とのこと。同市は標高920Mの高原の中にあり、四季を通じて過ごし易く、英国統治時代には大規模な駐留拠点が置かれていたとの事で、英国風の面影も若干残っている街並み。同市の発展状況に対応するために、インド政府や州政府は国家的なバックアップに乗り出し、サイエンスパークの整備やインド科学大学院大学の創設などを実施したとされている。また、市内には、四季を通じて爽やかな気候からか、数え切れない程の公園や庭園、湖、緑の街路樹が点在し、「ガーデンシティ」という名称が与えられているとか。正直言うと、或る事態が突発的に生じ、半ばホテルに缶詰状況になったため、市内は満足に見学することが出来なかった。残念、無念!
さて、その突発的事態とは? 実は、宗教裁判に近い判決が60年振りに突然下される事になったという事から、判決の行方次第では、国内において大暴動・騒動が起きるかも知れず、政府から真剣な注意勧告や、平静に対処するようにとの国民への呼び掛けが頻発され、半ば騒然とした状況の中で、バンガロール空港に降り立ったと言う訳。何でも、ヒンズー教とイスラム教寺院が複雑に建立されている土地(謂わばエルサレム的な場所)の所有権をめぐる裁判が、60年の歳月を経て、止せば良いのに、9月30日の夕刻に突然結審すると言う情報が流れ、インド全土がその行方次第では、両宗派間での一大抗争に巻き込まれる可能性が十二分にあるとか、その為に、外出は控えるようにとの要請で、更に政府は、当日を「ドライデー(禁酒日)」に指定、ホテルでも、本当に小生たちの喉は一日「ドライ」でした。結果は、心配した事も無く、裁判官も賢明で、土地を三分割し、両派が中間を共用する事でどうかと言う玉虫色の判決だっただけに、両派ともに冷静で、大方三ヶ月以内に両派が相互に控訴し、また60年程度掛けて裁判されるという決着で終了。お騒がせ様でした。更に更に、帰国日の10月2日はガンジー国父の誕生日、これも国法で「ドライデー」に指定されていた!実に、一年に二日しかないドライデーに、滞在中2日(一日は特別)も遭遇、本当に運の良い事!飛行機が無事に飛び立つまで、全員喉はドライ状態!残念!
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